歴史を変えたと思われる疫病があります。例えば日本の幕末でも孝明天皇や高杉晋作が天然痘や結核に感染しなければ、その後の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。

19世紀、フランスにより植民地化されていったベトナムですが歴史を調べていくと、感染症によってベトナムの運命が決まったのかもしれない・・・そう考えられる出来事がありました。そこで今回は、ベトナム最後の王朝である阮(グエン)朝、その成立から歴史から見ていこうと思います。

この話は、前回「ベトナム歴史秘話~全人口の10人に1人が亡くなった200年前のパンデミックとは?~」の続きとなります。

1. 阮朝の設立まで

近世ベトナムを治めていた後黎朝は、18世紀になると既に弱体化し皇帝が名目上のものとなりました。北部は鄭氏による東京国(トンキン)、南部は広南阮氏による広南国(クァンナム)に分かれていたものの両国とも腐敗や重税で疲弊といった状況です。

そんな中1771年に南部の西山(タイソン、現在のクイニョン付近)で広南阮氏とは無関係の阮氏3兄弟による反乱がおきます。この反乱を好機と見た北部の鄭氏も1774年に軍を進め、広南国は敗北。1777年には嘉定(サイゴン)も陥落し、一人生き延びた阮福暎(グエン・フック・アイン)を除いて広南阮氏の王族は処刑されてしまいます。

阮3兄弟像

その後北部の東京国や傀儡の後黎朝も滅ぼされ、西山朝がベトナムを支配するものの、3兄弟の内2人がそれぞれ皇帝を名乗るなどといった分裂状態となりました。

一方で逃げ延びた阮福暎は、シャム(現タイ国)に支援を求めて西山朝と戦うものの敗北。そういった中、フランス宣教師ピニョー・ド・ベーヌと出会い彼から援助を受けることになります。

2. フランスへと渡った阮朝の王子

1785年わずか5歳の息子、阮福景(グエン・フック・カイン)をピニョーに託しフランスに向かわせ、革命直前の1787年ルイ16世に謁見、フランスが援助を行うヴェルサイユ条約を締結させます。

フランスで描かれた阮福景(まだ子供だったことがわかる)

18世紀末イギリスがインド、オランダがジャワ、スペインがフィリピン、ポルトガルがマカオと続々とアジアに拠点を作っていくなかフランスはベトナムをアジア進出の足掛かりにしようと考えていたと考えられます。条約には、援助の対価としてコンソン島(Côn Đảo)の割譲が入っていました。

しかし革命前夜のフランス本国の財政事情では予定していたような援助ができなかった為、ピニョー個人による援助と奮闘により1789年、阮福暎は嘉定(Gia Định、後のサイゴン、現ホーチミン市)を奪い返すことに成功。その後、次々と都市を奪還し1802年には西山朝を滅ぼして最後の王朝である阮朝を設立し初代皇帝、嘉隆帝(ザーロン)となります。

ピニョー・ド・ベーヌ

阮朝設立の功労者であった宣教師のピニョーですが、1799年ベトナム全土を統一する前に西山朝に捕らえられて病死。幼くして一緒にフランスへと渡った阮福景は、4年ほどで帰国したもののキリスト教の影響を深く受けたことで洗礼を希望し、伝統的な先祖崇拝を否定するようになり周りとの軋轢を生むようになります。

3. ベトナムの歴史を変えた1度目の悲劇

そして1801年、その後のベトナムの運命を決める1つ目の出来事が発生しました。阮福景はわずか21歳で天然痘に感染して死亡してしまいます。(毒殺説もあります)

サイゴン大教会 (聖母マリア教会) の前にあるマリア像は、植民地時代、幼い阮福景を連れたピニョーの像だった。

イギリスでジェンナーが牛痘による天然痘予防について発表したのは1797年~1799年とあります。発表から数年も経たずヨーロッパ各国の王族も含めて急速に広がりました。もし阮福景がもう10年ほど先までヨーロッパに滞在していたら、ワクチンを接種することができ、天然痘で死ぬことは無かったのかもしれません。

そして彼が生きていればおそらくベトナムの歴史は大きく変わったものと考えられます。その理由としては、キリスト教への寛容です。ベトナムが植民地化されるきっかけとなったのは、通商の拒絶や宣教師への弾圧を口実にした戦争でした。

1851年の宣教師殺害。これ以外にも数々の残酷な刑で殺害された。

フランスへの渡航経験もありキリスト教を信じていた阮福景が2代目の皇帝になればその後、阮朝として国を閉ざして宣教師を弾圧することも無かったのではないでしょうか。

彼の息子である阮福美堂は、幼少(2~3歳)であったため皇位を継ぐことはできず嘉隆帝の4男(2代皇帝となる明命帝)が継ぎ、儒教を重んじる彼は後にキリスト教を弾圧することになります。

4. ワクチンが世界に広がる~Balmis Expedition~

さていったん話は変わりますが、ジェンナーによって発表されたワクチンに関心を示した国の1つにスペインがあります。

当時のスペインは最盛期よりは衰えていたものの、南北アメリカやアジア(フィリピン)といった世界中に植民地を有しており、ワクチンを世界中へ届ける必要がありました。しかし大量生産方法がなく、移動手段も帆船の時代(フルトンによる蒸気船発明の4年前)です。

1803年マリアピタ号がスペインを出航の様子

新鮮で有効なワクチンを届けるためにあみだされたのは、牛痘の膿汁を人の腕に接種し、出来た膿汁を次の人の腕に接種するといった人体を使った運搬方法(人伝牛痘苗製造法)でした。

Balmis Expeditionと呼ばれるこの試みでは、1803年11月30日にスペインを出航したマリアピタ号へ天然痘未感染でワクチン接種歴も無い8~10歳の孤児22人を乗せ、継代を繰り返して運搬を行いました。

さらに途中メキシコでは新たに25人の孤児を乗せて太平洋横断中の感染を繋いでいきます。そして1805年4月15日にフィリピン到着し、さらにベトナム近くのマカオにまで届けられます。阮福景が天然痘で亡くなってから4年後のことでした。

5. そして1度はベトナムにも伝わったワクチン

嘉隆帝は息子を天然痘で亡くしている為、それを防ぐ方法に関心がありました。1819年にフランスのアンリという船がダナンに到着した際、天然痘ワクチンはマカオへ行けば手に入るという話がフエの王宮に伝わります。

そして1820年死ぬ間際の嘉隆帝は、王室医師として信頼していたフランス人Jean Marie Despiauへマカオへ行く準備をするように命じます。マカオではすでに抗体を持った子供が多いと考えられることから、1820年7月13日に中国人の子供2人を乗せてマカオへ出発。マカオからは子供の体を使って運搬し、1821年2月に帰国すると2代皇帝・明命帝(ミンマン)の王子、おそらく後の3代皇帝の紹治帝(ティエウチ)に接種します。しかしDespiau自身は、1824年12月21日おそらくコレラのために死去。

2代皇帝の明命帝(ミンマン)

そしてその5年後の1829年、紹治帝の子供で後に4代目となる嗣徳帝(トゥドゥック)が生まれますが、明命帝は西洋人との繋がりや役割を徐々に減らし、中国医学の知識を強化する方向であったと考えられるため、マカオから運ばれてきたワクチンや技術はやがて失われ、彼には予防接種がされなかったものと考えられます。

6. ベトナムの歴史を変えた2度目の悲劇

1845年、15~16歳となったトゥドゥックは天然痘に感染します。彼は運よく生き延びましたが、病気の後遺症か虚弱でかつ不妊となったとあります。側室なども入れると109人の妻がいたとのことですが、子供はいませんでした。

4代皇帝の嗣徳帝(トゥドゥック)

その為、彼は3人の甥を養子にしましたが、そこに親族や有力者も関わり政治の混乱を招くことになります。フランスがベトナムへと侵略を進める中、虚弱だったことで政治面でもリーダーシップが取れなかったのかもしれません。また前回取り上げたように度々発生する感染症の大流行も国力を弱めたことでしょう。そして1883年トゥドゥックは死去。

まず5代目として育徳帝が擁立されますが、即位3日で廃位させられてさらに餓死に追い込まれます。1883年に6代目として協和帝が重臣たちの傀儡として即位しますが、こちらも4ヶ月で廃位させられ毒殺。1883年に7代目として建福帝が即位するものの半年で毒殺されてしまう。
1884年に8代目として咸宜帝(ハムギー)が即位しましたが、反仏運動によりわずか1年でフランスにより別の皇帝である第9代同慶帝(ドンカイン)を擁立されてしまいます。咸宜帝は後に捕らえられてアルジェリアへ配流されました。

ちょうど1883年~1885年は清仏戦争が行われており、その後のベトナムの未来が決まる時期でした。その時期における即位継承のごたごたと不安定な政治は、悪影響を与えたことでしょう。

北部ベトナムが戦場となった清仏戦争

清仏戦争に敗北し1886年アンナン(中南部)、トンキン(北部)を含め全土がフランスの保護国となり、1887年にはインドシナ総督府が設置されフランス領インドシナとなります。

歴史のifとなりますが、もしDespiauがコレラで死なずにもっと長生きをしていたらもし明命帝が西洋医学を積極的に受け入れたのならトゥドゥックに予防接種がされて天然痘で重い症状とならずに済み、結果虚弱にもならず子供もいたことで、ベトナムの歴史は変わっていたのかもしれません。

7. 時間をかけて撲滅へ

1891年サイゴンにパスツール研究所が設置され水牛でウイルスを栽培することに成功し、ベトナムで天然痘ワクチンが広がるきっかけとなります。ちなみに研究所の正門が面する通りがPasteur(パスター通り)です。

1898年の調査ではベトナム北部に住む若者の95%の人に天然痘のあざがあり、盲目の10人中9人は天然痘が原因で失明だったというくらい蔓延していたベトナム。

フランスは1902年に強制天然痘ワクチン接種法を制定。ベトナムでの天然痘撲滅を医療上の最重要課題として取り組み、1959年北部(北ベトナム)で天然痘撲滅を宣言。ただしこちらの記事などを見ると1959年頃でも南部では天然痘に感染する人がいたことがわかります。時間をかけた天然痘との戦いは、1977年に世界中で天然痘が撲滅されて人類の勝利となりました。

さて2020年4月2日現在、猛威を振るう新型コロナウイルス感染症との戦いにおいてベトナムは中国と隣接しているという地理的条件(その分、人の往来も大きかった)にもかかわらず、政府の対策なども功を奏し、感染者の数などは人口比で他国よりも低く抑えられています。この背景に、かつて感染症によって国の運命が望まぬ方向へと進んでいった苦い歴史がある、その危機意識があるからとも言えるのではないでしょうか。

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本記事の作成にあたっては下記資料を参考にしました。また記事内の画像はネット上より引用しております。
ベトナムでの天然痘の歴史(ベトナム語)
ベトナムでの感染症(ベトナム語)
天然痘・ワクチン・グエン朝(ベトナム語)
Balmis Expedition(スペイン語)
DISEASES IN VIETNAM(英語)
「牛痘種痘」の歴史(日本語)
「免疫学の父」ジェンナーの実験(日本語)