155年前、植民地化直後のサイゴン(現ホーチミン市中心部)を訪れてた幕末日本のサムライ達。後編では、古写真、イラスト、資料から当時のサイゴンとはどんな世界で、彼等は何を目にしたのかについて紹介したいと思います。

なお、前編(初めてサイゴンに降り立ったサムライの話)はこちらです。

1. 個人の視点だからこそ見えたサイゴンの一面

サイゴンを訪れたのは、何も幕府公式の使節団だけではありません。何と個人で勝手にサイゴンを訪れ滞在した人がいました。その人こそ同志社大学の創設者である新島襄です。

1864年7月17日(元治元年6月14日)、函館から密航した彼は、上海と香港を経て1864年12月28日にサイゴンへとたどり着き、翌1865年2月9日まで2ヶ月ほど滞在しました。その後半年かけてアメリカへと行きます。元祖バックパッカーのような旅です。

1-1. 古文書に書かれていた驚きの記録

彼が残した航海日記の一部が、同志社大学キリスト教文化センター第4期 新島襄のGo Global-海を越えて-』にて公開されています。

赤字で書かれている『柴棍』は、サイゴンです。蛇行したサイゴン川と進む船舶の様子や、舟を漕ぐベトナム人の絵に加えて凄いことが書いてありました。

『土人此斉根川に毒を流し仏人』その後も「毒」という字が2回ほど登場します。ベトナム人による斉根川(サイゴン川)に毒を流すフランスへの草の根の抵抗運動が行われていたことを自ら見聞きすることで知ったのでしょう。

1862年のサイゴン条約でフランスの植民地となったサイゴンやコーチシな東部3郡ですが、先に取り上げた通り抵抗運動は各地で続いていました。(写真は、ホーチミン市歴史博物館に掲載されている抵抗運動の発生図で、現ホーチミン付近で数多く発生していることがわかります)

公式な使節団ではなく自由度の高い個人で訪れ、かつ1~2日ではない長期にわたって滞在したからこそ、他の日本人が気づかなかった現地の実情を把握できたと考えられます。

また彼が見たと思われるサイゴンの風景は、当時の新聞記事のイラストからも伺えます。

彼がサイゴンに到着する直前の1864年12月24日付のフランス紙LE MONDEに掲載されたサイゴンの様子。民族も様々な人々が集まる国際色あふれる場所であることが伝わってきます。

こちらは、上記と同じ場所の反対側から、お祭りの様子を描いたイラストで1865年7月29日付の同紙に掲載。なお、このお祭り経費には48,000フラン(現在価値で推定3,418万円)もかかったとも書かれています。

1-2. 幕末にサイゴンへ行くにはいくらかかったのか?

さて当時日本からサイゴンまで行こうとした場合いくらかかったのでしょうか?
直接の金額は見つかりませんでしたが、それを探る手がかりを当時の文献から見つけだしました。『遣外使節日記纂輯 第三』の254ページには、1865年当時のクラス別(横浜~マルセイユ)の船賃が載っています。それを元に当時の横浜からサイゴンまでの運賃を現在の金額で推定してみます。

横浜よりマルセイユ(片道) フラン建て 日本(両) 現在価値(円) 横浜~サイゴン(推定)
一等船客上等 7,669 921両3朱1匁7分5厘 5,622,449 2,403,937
二等の室 4,793 559両2朱3匁5分 3,413,303 1,459,393
二等の尋常の室 3,835 447両1分2朱2匁5分 2,731,100 1,167,710
二等 2,307 268両3分2朱 1,641,407 701,801

換算レート及びサイゴンまでの推定の計算根拠は長いので、本記事の最下部にまとめています。

横浜からサイゴンへは一番安くても片道70万円相当であるものの、現在は生産性向上により当時よりも相対的に安価に抑えられている消費者物価(米価)ベースでの計算であるため、実際は数倍の価値だった可能性があります

密航で大金を持っていない新島襄のサイゴン滞在&アメリカ行きは、ほぼ無銭旅行だったとも考えられ、まさに命がけで日本を飛び出した冒険者とも言えるのではないでしょうか。

なお参考までに現在日本発でホーチミンを含めた東南アジアを回るクルーズ船(あのダイヤモンド・プリンセス号)の場合、諸税込み約92~275万円とあります。船旅だと金額(額面)的には当時とあまり変わらないですね。

2. 古写真が語る開発の進むサイゴン

次にサイゴンを訪れた記録を残したのは、第1回遣欧使節にも参加した柴田日向守剛中でした。

彼は、製鉄所建設と軍事教練の援助を受けるため、再度イギリスとフランスへ渡りフランスと協定を結びます。映画ラストサムライのモデルでもあるフランス軍事顧問「ジュール・ブリュネ」(後に脱走して戊辰戦争-函館戦争にも参加)が来日するきっかけとなった出来事でもあります。(また戦後明治政府へ投降したブリュネらは、サイゴンへと追放されます

そしてフランスからの帰路1866年2月24日(慶応2年1月10日)にサイゴンへ寄りました。翌日の朝9時まで1泊滞在したとあるので、この頃には、フランス船舶の立ち寄りが普通になっていたと考えられます。同行者が残した短い記録が『遣外使節日記纂輯 第三』の274ページに載っているものの「貿易はまだ盛んでなく、漢字を用いている」といったわずか数行の記録しか見つからず、ここからは彼らが目にしたものを読み取ることができません。

しかし同じ時期の古写真を1年単位で丹念に見ていくと、開発の真っ最中でもあったサイゴンの様子が見えてきました。

まず1866年に現ホーチミン博物館(ドラゴンハウス)から撮影されたサイゴン港です。

前年1865年10月に建設されたという信号竿(mât des signaus)が中央に写り、その背後には、まだワンタイハウス(現ホーチミン税関ビルの前身)がありません。さらに右側奥に写る小さな商店を近くで写した写真を見ると・・・

既にCAFE de PARIS、Grand Cafe Restaurantなど様々なお店が既に立ち並んでいます。また 現在ホーチミンで目にする街路樹(苗木を筒で固定)も、この時期に植えられたことがわかりますね。上記写真の位置は現在、Nguyen Hue通りとTonDucThang通りが交わるマジェスティックホテルの付近です。(クリックで現在の同じ場所を確認)

さて、これが翌年(1867年)になると

信号竿の後ろに、以前の記事で取り上げたホテルワンタイの建設が始まりました。また右側奥の商店が並ぶ先、三角屋根の建物の奥にも何か白い建物ができていることがわかります。そこを逆の方向から撮影した写真がこちらです。

白い柱が特徴的な建物です。ここは、TonDucThang通りとDong Khoi通りの交差点よりちょっと先(現RUNAM BISTROレストラン)の付近です。(クリックで現在の同じ場所を確認)

さらに数ヶ月後(1868年?)には、ワンタイハウスが出来上がりました。

地図上に直すとこんな感じの位置関係です。GoogleMapではこちら

また現マジェスティックホテル付近の商店部分だけを拡大して比べると、こんな感じで変化が見えてきます。(赤矢印部分が新設の建築物や変化した箇所です)

毎年のように新しい建物が次々とできていく、ある意味現在のホーチミンと似た状況が幕末のサイゴンにもありました

3. 幕末最後のサイゴン公式訪問団とは?

最後に1人、有名な人物が幕末にサイゴンを訪れています。日本資本主義の父とも言われる渋沢栄一です。

1867年開催の第2回パリ万博に日本も参加することになり、フランスの支援の元1867年2月15日(慶応3年1月11日)に横浜からパリ万国博覧会派遣使節が送られます。彼は、15代将軍の徳川慶喜の名代となった弟・徳川昭武(当時14歳)の随行員として参加しました。

ちなみにイギリスが支援する薩摩藩一行は、約1年早い1866 年3月26 日(慶応 2年2月10日)イギリス汽船で鹿児島を出発し、途中サイゴンにも寄って1867年2月6日(慶応3年1月2日)にパリへ到着したとありますが、記録が見つかりませんでしたので今回は割愛します。

サイゴン滞在については、渋沢栄一により帰国後の明治4年に「航西日記」として出版されます。今回その巻之1、25~29ページからサイゴンに関する記述を見つけ出しましたので紹介します。

3-1. サイゴン訪問の様子を古写真とイラストで探る

1867年3月1日午後4時にブンタウ沖からドンナイ川を遡上した船は、夜6時にサイゴン港へ到着し、この地に駐屯する仏国総監(コーチシナ総督)の使者が来て歓迎されますが、まだまともなホテルが無い時代、そのまま船内に泊まった様子で翌3月2日朝7時に上陸。軍艦の祝砲が21発鳴り、騎兵が馬車の前後を警護する中、鎮台の官邸(総督公邸)を訪問します。

上記は、5年後である1872年7月のノロドム王来訪時のイラスト(フランス紙LE MONDE掲載)ですが、おそらく彼らも同じように歓迎されたことでしょう。

記録には、フランス本国で参加する博覧会の模擬(奇物珍品が雑集)を一見したとあるので、当時の総督邸内には博物館のような場所もあったと考えられます。

午前10時頃ホテル代わりである船に戻りその後、市街を遊覧しました。彼らが見たであろうサイゴンの中心部はこのような感じです。

水路があった1867年頃のNguyen Hue通り。現在のこの付近から撮影した写真。(クリックで現在の同じ場所を確認)写真上部は北西方向で長屋の先にシロアリで崩壊する最初のサイゴン教会(現サンワタワー)の場所も写っています。

下は現在のこの付近から撮影した(クリックで現在の同じ場所を確認)、1868年ワンタイハウスが出来上がったあとのNguyen Hue通り南西方向(サイゴン川方向)。

そして彼らは夜、鎮台の招待により役人が集まる場所へ行き猶奏楽(演奏)を鑑賞します。

イラストは、当時コーチシナ総督公邸で行われた別のイベントの様子ですが、彼らの歓迎式典もこのような感じだったと考えられるでしょう。

3-2. サイゴン観光事情~1867年版~

サイゴン滞在は3月3日正午までの実質1日半だったので、自由時間は3月2日のほぼ半日と考えられますが、彼は案内の人を雇って観光もしています。例えば、椰子林の間を進み広い場所に出たところ象使いがおり鞭を使った演技を見たり、象に乗ったと記録に残しています。

1864年にサイゴンで開催された象レースを伝える新聞記事。現地での娯楽としても象が活用されていたことが伝わります。

また彼の元に小舟がやってきて米や、蒲葵(ビロウ)の団扇=蒲葵扇などを売りに来たと記録が続きます。これは現在でもベトナム土産としてよく目にする商品で、この当時からお土産として売られていました。

一方で彼が目にした一般のベトナム人は、まだ貧陋(まずしくみすぼらしい)人が多く、舟を漕いで荷物を運んで生計を立てているとあります。

当時のサイゴンにおける川沿いの一般家屋を写した写真

彼が訪れたのは雨の無い乾季。(現代の様に舗装されていない道であるがゆえ)砂塵が舞い上がって歩くのにも苦労する中、サイゴン内で名勝となる観光地を探しても何も見つからなかったものの、既に劇場や妓院(遊女屋)は存在しており、中国(上海や香港)と同じ感じであると感想を残しています。

さらに彼は馬車を雇って、サイゴン港からおよそ2里離れた商綸(シャウリン。現チョロン)へも足を延ばしました。昔は栄えた場所と見えて巨閣高廊が頽廃(退廃)した場所があったと記録しています。

そこは、当時チョロンに存在した上記写真のLa Pagode Sacré Caï-maïという建物かもしれません。また彼の記録では、市中に1つ大社があって扁額に聖母殿と漢字で書かれ海神(媽祖)を祀っており、繪額(絵)や石碑なども多いとありました。その場所は、後に岩倉使節団も訪れる穂城会館か、もしくは下記

霞彰會館(媽祖天后廟)とも考えられます。なお2~3人の中国人がいて、この祠の歴史などを記した記録のようなものを売っていたので筆談によるコミュニケーションを試みたものの、相手には理解をしてもらえず返事が無かったとあり、何でも試してみる好奇心旺盛な若き日の渋沢が伺える出来事です。

3-3. サイゴン経済事情~1867年版~

ここで後の経済人、渋沢が見て記録に残したサイゴンの特徴をいくつか挙げておきましょう。

サイゴン川に停泊して丸1日半経つが、来る船はフランス船のみでイギリスの船は寄っていない。各国の船舶も僅か4~5隻が停泊しているのみ。
田圃は二毛作で安南米(ベトナム米)として近隣国に輸出されて金銀貨幣などを得て利益を出している(逆を返せば、お米くらいしか稼ぐものがない状況)。商店もまだ少なくもっぱら土地を修繕(開拓)している。既に小さい製鉄所、学校、病院、造船所などが設けられてフランスの東洋における根拠地(拠り所)としている。移住してきたヨーロッパ人達がおり、人口が増えていると言われている。


1860年代のサイゴンの通り。道路は未舗装で建築用の丸太が転がっている。新たに作られたレンガ造りとそれ以前の建物が混在している様子もわかる

開拓建業は盛んだが戦争が終わって数年たっても爪痕が残っており、土地は荒廃して人家がまばらとなっている。現地人の反乱やグエン朝の来襲の可能性もあるため、フランス兵は常に用心しており、将官および1万の兵を駐屯させ不慮の事態に備えている。
発展させようと大小様々な開発計画をしているけれども、年間の歳入は、僅か300万フラン※に過ぎず一方で費用は多い為、赤字=フランス本国の持ち出しとなっている。それゆえ本国フランスの議会でも問題となっている。(※フランは、ユーロ導入前のフランスの通貨)

3-4. アジア植民地と比較してわかったサイゴンの規模

渋沢が気に留めたサイゴンの歳入。彼は、ここに来る前に香港や上海へも立ち寄っており、その後シンガポールにも立ち寄って帰国後にこれを書いているので、サイゴンの300万フランはアジアの植民地においてひときわ少ないと感じていたのかもしれません。なお上海(租界)の歳入は旧来の弊害を改めたため倍増し、1年で500万ドルと記録に残しています。

しかし通貨単位が異なり、この金額が現在どのくらいの規模なのか分からないと理解するのは難しいでしょう。そこで今回は上海(1866年)、サイゴン(1866年)、香港(1869年)、シンガポール(1870年)のそれぞれの歳入と人口を調べ、さらにできるだけ正確になるよう2種類の方法で現在価値へと置き換えてみました。

(1)ポンド換算しイギリス消費者物価指数を元にした現在価値

場所 歳入 現在価値(円) 人口 1人あたり歳入(円)
上海 500万ドル 14,586,422,168 55,952 260,695
サイゴン 300万フラン 1,546,664,244 180,000 8,593
香港 923,653ドル 2,629,312,060 119,477 22,007
シンガポール 875,690ドル 2,624,455,019 97,111 27,025

(2)日本の金貨”両”で換算し日本の米価を元にした現在価値

場所 歳入 現在価値(円) 人口 1人あたり歳入(円)
上海 500万ドル 13,490,686,800 55,952 241,112
サイゴン 300万フラン 1,430,478,473 180,000 7,947
香港 923,653ドル 2,438,853,800 119,477 20,413
シンガポール 875,690ドル 2,349,996,224 97,111 24,199

計算根拠は長いので読みたい人は、本記事の最下部を参照してください。

以上を元にすると各都市の年間歳入は、
・上海:135~146億円
・サイゴン:14~15億円
・香港:24~26億円
・シンガポール:23~26億円
といった金額になり、また1人あたりの歳入で見ても香港やシンガポールよりもだいぶ小さいことがわかります。

ちなみに現在日本の自治体で人口が同じ18万人である熊本県八代市の歳入(市税)が151億円くらいなので、ちょうど当時のサイゴンの10倍ですね。

あれこれ開発しているのに歳入はまだ300万フランに過ぎない』と書いた渋沢の感想もこういった数字を見ることで、理解しやすくなるのではないでしょうか。

なお当時の歳入のうち香港では11.8%、シンガポールでは41.1%がアヘン販売によるものとあり、これが後にサイゴン(フランス)もアヘンによる収益を追い求めていく背景だと考えられます。(岩倉使節団の見たアヘン販売の記事参照)

渋沢栄一のサイゴン滞在はわずかな期間でしたが157年後にあたる2024年、新1万円札の顔として彼は再びホーチミンの地を訪れることになります。

さてコロナでほぼ止まった日越間の行き来は、今後徐々に再開するとも言われています。幕末、サムライ達がサイゴンを訪れることで自らの見聞を広げたように、ビジネスにおける現在日本のサムライ達は、ホーチミンを見ることで何を得るのでしょうか?

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5. おまけ各種計算根拠と引用データについて

以下、興味ある人向けの資料です。

(A)当時の横浜~サイゴン間の運賃については、『フランス郵船と日本 : 1865年から1889年までの横浜寄港から』61ページ目に12年後(1878年)の横浜~サイゴンの運賃が、横浜~マルセイユまでの平均42.76%であったことから同じ比率で計算しました。

(B)当時のサイゴンの人口については、1864年12月24日フランスLE MONDE紙410ページ目に、人口18万人(内中国人1万人)とあったのでそれを引用しています。なおこのサイゴンというのはチョロンやザーディンと呼ばれた周辺地域も含むものと考えられます。

(C)1865年の上海(租界)の人口については、こちらの書籍に55,952人こちらの資料では、中国人55,465人で外国人460人とあるので55,952人としています。

(D)香港とシンガポールの歳入と人口についてはコチラの英文レポートを参照し、人口については、香港1870年が119,477人、シンガポール1871年が97,111人とあるのでそれを使いました。

(E)当時のポンドとフランの為替は、こちらの文献によると1865年時点で1ポンド=25.2218フランとあります。

また1867年時点だと当時ブラジルの通貨Milreisベースでポンド(1,084.8)=フラン(42.98)、スイスフランベースでポンド(2,518)=フラン(100.02)という為替関係があったことがわかり、当時1ポンド=25.1750~25.2396フランだったことがわかります。そこで1866年時点では、1ポンド=25.2073フランとして計算しました。

(F)当時のポンドとドルの為替については、ドル銀貨とドル紙幣で為替レートが異なるとわかり上記サイトの数字がどちらか不明で使えなかったので、学術論文『幕末・横浜洋銀相場の経済学』の18ページ目香港市場の1,000メキシコドル当たりのポンドからそれぞれ逆算し、1ポンドを1866年4.4547ドル、1869年4.5521ドル、1870年4.4789ドルとして利用しました。

(G)1867年の日本の金貨”両”と”ポンド”の為替レートは、渋沢栄一の出発時の記録に1ポンド=4両2分余とあるので4.5両として計算しています。
なお金貨は4進法で1両=4分=16朱となります。銀貨(匁)分は端数であり、また金貨との両替レートが変動していたため今回計算に入れていません。

(H)2019年の平均為替レート仲値(TTBとTTSの間)は、1ポンド=139.26円でした。

(I)1867年の1ポンドの価値を英小売物価指数(RPI)ベースで2019年に置き換えると89.20ポンドとなります。つまり当時の1ポンドの価値は89.2倍であるため、歳入の年にあわせてそれぞれこのサイトから算出しました。なお賃金ベースで価値を出すとその6倍超にもなります。

(J)幕末1両の現在価値は、日本の米価を基準に算出されているこのサイトの数値を使ったものの1999年時点の価値であるため、消費者物価指数(1999年99.77、2019年102.33)を元に2.57%増加させて2019年の価値を
慶應元年(1865) の1両=6,105円
慶應3年(1867) の1両=2,671円
として計算しています。

以上から、下記の様に計算しました。
(1)ポンド換算しイギリス消費者物価指数を元に現在価値に置き換えた場合

場所 時期 歳入 当時のポンドへ変換レート 歳入(ポンド換算) 現在価値(英消費者物価指数ベース) 2019年平均為替(GBP⇒JPY) 現在価値(円)
上海 1866年 500万ドル 4.45474 1,122,400 93.32 139.26 14,586,422,168
サイゴン 1866年 300万フラン 25.20730 119,013 93.32 139.26 1,546,664,244
香港 1869年 923,653ドル 4.55208 202,908 93.05 139.26 2,629,312,060
シンガポール 1870年 875,690ドル 4.47888 195,515 96.39 139.26 2,624,455,019

(2)日本の金貨”両”で換算し日本の米価を元に現在価値に置き換えた場合

場所 時期 歳入(ポンド建て) 1867年の両換算 1867年1両の2019年価値 現在価値(円)
上海 1866年 1,122,400 5,050,800 2,671円 13,490,686,800
サイゴン 1866年 119,013 535,559 2,671円 1,430,478,473
香港 1869年 202,908 913,086 2,671円 2,438,853,800
シンガポール 1870年 195,515 879,819 2,671円 2,349,996,224

余談ですが、以上を元に1867年の各国通貨の現在価値は、
◆英消費者物価ベース換算だと1ポンド=12,798円、1ドル1,895円、1フラン508円
◆日本の米価ベース換算だと1ポンド=12,019円、1ドル1,780円、1フラン477円
となります。


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