2019.12.05

ベトナム情報

ベトナム歴史秘話~なぜ日露戦争の犠牲者がホーチミン中心部に埋葬されていたのか?~

ホーチミン中心部1区に位置するレバンタム公園。緑に覆われていて運動する人も多いこの市民憩いの場所ですが36年前までは墓地でした。そしてここには、日露戦争を戦った将兵達も埋葬されていたという知られざる歴史があります。

彼らは何故どういう経緯でサイゴン(現ホーチミン)へとたどり着き亡くなり、そして埋葬されたのか。ガイドブックには載っていない、ネットで調べても日本語での情報が皆無な歴史の秘話を今回自力で調べあげたのでここで紹介します。

1. サイゴン中心地に墓地が生まれた経緯

欧米列強のアジア進出が盛んになった19世紀後半。1862年第一次サイゴン条約が結ばれ、嘉定(GiaDinh、ザーディン)と呼ばれたこの地は、フランスの植民地となり名前をサイゴンへと改めます。

最初は、フランス海軍が管理し戦闘で亡くなった兵士を埋葬する場所として当時の郊外に作られますが、ヨーロッパ人入植者(フランス人やドイツ人商人)もコレラ、マラリア、腸内寄生虫、赤痢といった病気で亡くなっていったため1860年後半から一般市民も埋葬されるようになりました。
当初Cimetière Européenと呼ばれた墓地は、1920年よりMassiges墓地と呼ばれるようになり埋葬者も増えていきます。

ヨーロッパ人墓地だったころの古写真

   
1955年フランスが撤退し南ベトナムになると、Massiges通りはマクディンチー通り(Mac Dinh Chi)へと名称を変えたことから、そこはMac Dinh Chi墓地と呼ばれるようになります。

都市化が進んだ結果この墓地は、東京でいう青山霊園のような一等地にある墓地となったため上流階級の墓地となり、当時の独裁者でクーデターにて殺されたNgo Dinh Diem大統領と弟のNgo Dinh Nhu(僧侶のバーベキュー発言で有名なマダムNhuの夫)といった著名人も埋葬され、最終的には数千もの墓がある墓地となります。

2. 墓地が廃止、約80年ぶりに判明した埋葬者

時は流れ南北ベトナムが統一されサイゴンは、ホーチミンと改名されます。そして数年後の1983年夏、ホーチミン市政府は墓の運営を中止し埋葬者の親族は2ヶ月以内に移転をするように命じます。事実、フランスの軍人や入植者などの墓は掘り起こされてフランスへと送られました。

1970年代のマクディンチー墓地

   
そしてベトナムの友好国、在ホーチミンのソ連領事館の電話も鳴り忘れ去られていたロシア兵の墓の存在が伝えられます。当時残っていた墓は4人分だけでしたが、その後の調査でもう4人の埋葬場所が判明しました。
領事館も知らなかった墓の存在、ソ連海軍中央国家公文書館なども協力した結果、埋葬者が日露戦争に従軍した将兵であることが判明します。

3. 埋葬者は、日本海海戦の水兵・・・は誤情報だった

この件を英語で探すと2つの情報出てきます。1つはベトナムのニュースVNEXPRESSの英文記事より(下記1894は1905の誤字と推測)

In one corner of the compound there was also a group of tombs belonging to a band of injured Russian seamen who had fled to Cam Ranh Bay in 1894 following their defeat at the Battle of Tsushima and later died in the military hospital in Saigon.

もう1つは、英文の書籍「Two Hamlets in Nam Bo: Memoirs of Life in Vietnam Throught Japanese Occupation, the French and American Wars and Communist Rule, 1940-1986」に書かれた

It is the huge tombstone of the Russian seamen defeated by the Japanese at Tsushima in 1905.They fled to Cam Ranh Bay. Some seamen were seriously sick and were brought to Saigon. They died and buried in Mac Dinh Chi Cemetery

1905年のTsushima、日本では日本海海戦、海外ではBattle of Tsushimaと呼ばれる海戦です。この戦いでロシアのバルチック艦隊はほとんどが沈没し、ウラジオストックにたどり着いたのは3隻。そしてあまり知られていませんが、唯一Anadyrという武装商船が巡洋艦Uralの乗組員を助けた後、元来た航路を戻りマダガスカル経由でロシアへ逃げることができました。

武装商船Anadyrの写真

   
墓に埋葬されていたのは、Anadyrに乗船していた水兵なのでしょうか?しかし英語、ベトナム語に加えてロシア語でAnadyrを調べても、逃亡時にベトナムのカムラン湾(Cam Ranh Bay)へ立ち寄ったという情報は出てきません。

5. 日露戦争もう1つの大きな海戦

答えは、改葬された現在の墓にありました。

現在の墓石にはDiana(ディアーナ)とあります。そう彼らの乗り込んでいた船の名前です。彼らの戦いは、1904年8月10日の黄海海戦でした。

日露開戦後、日本海軍は旅順港のロシア艦隊を封じ込めるべく旅順港閉塞作戦を決行しますが失敗、203高地で有名な旅順包囲戦が開始され湾内のロシア軍艦が被弾する様になります。旅順港に艦隊を置いておくことは危険と判断されウラジオストクへの回航が決まり出航した旅順艦隊と、待ち伏せしていた日本の連合艦隊が戦ったのが黄海海戦です。

旅順港におけるDianaの写真

   
旅順艦隊旗艦の艦橋に砲弾が直撃し司令長官のヴィトゲフト少将は戦死。艦隊は散り散りになり多くが旅順港に逃げ戻った中、砲弾2発が直撃し船は損傷(喫水線の下にも穴が開いた)、10名が戦死し17名が負傷した状態で青島(チンタオ)近くの黄海上で取り残された装甲巡洋艦Dianaの艦長は運命の決断を迫られます。

6. Diana艦長の選択~ウラジオか?サイゴンか?~

Diana艦長(Alexander Karl Nikolai von Lieven)

   
(1)対馬沖を抜けて最短距離でウラジオストクへ行く
(2)太平洋側を回って宗谷海峡からウラジオストクへ行く

しかし、いずれも日本艦隊に捉まる可能性が高く、比較的安全そうな(2)を選んだロシア艦ノヴィークは、樺太近くのコルサコフ海戦で日本に撃破されています。そしてもう1つの選択肢がありました。

(3)中立ながらロシアの同盟国であるフランス領インドシナ(現在のベトナム)で軍艦の修理可能な乾ドックもあるサイゴンへと行き修理を済ませて、既に増派が予定されていたバルチック艦隊と将来合流し再度日本と戦う

艦長は(3)を決断し黄海から南へ日本の軍艦がいない海を進み一路サイゴンへと向かいます。

黄海からサイゴンへの経路。Дианаとある黒い線がDianaの軌跡

   
ベトナムの北にあるホンガイ(ハイフォン近く)にたどり着くと、石炭を補給しハノイからサイゴンでの修理の許可を本国に打電してもらいます。そして4日後に軍艦がサイゴンへたどり着いたとき、伝えられたのは驚きの知らせでした。

7. サイゴンでの抑留と8人の死者

フランス本国からは「武装解除と戦争終了までの抑留」、ロシアからは「フランスの指示に従え」。戦争中の日本がフランス本国に中立であることを守る様、圧力をかけたのが理由です。

Dianaが入渠したサイゴンの乾ドック

   
船は9月16日にサイゴンでドック入りし10月13日まで修理されたとあります。修理後、船や兵は抑留されたままでしたが、一部の将校などはこっそり脱走(フランスも黙認)し、翌年カムラン湾へ辿り着いたバルチック艦隊と合流。再びロシア軍艦へ乗り込んで日本海海戦で敗れ結果、日本の捕虜になったという強者もいます。

巡洋艦Diana

   
修理されたDianaは、カティナ通り(現在のドンコイ通り)を進んだサイゴン川に停泊をしていたとあり、サイゴンでの抑留は1年2ヶ月21日にも及びました。

ロシア海軍なので元々熱帯地域での運用が想定された軍艦ではなく、当時の軍艦には冷房も無かったことからサイゴン抑留中の鋼鉄で覆われた艦内は、彼らにとって想像を絶するような環境だったと考えられます。また慣れない気候やマラリアなど伝染病、不衛生な水による衛生環境なども大変だったことでしょう。

艦長自身も1905年の7月26日には重病になるといった状況の中、上級士官1名と7名の水兵の計8名のロシア兵が亡くなります。戦闘中に死んだ将兵は、よく海へ水葬されますがサイゴン川に停泊している船から川に流すわけにもいかず、フランス海軍の水兵らも眠るあのMassiges墓地(後のMac Dinh Chi墓地)へと埋葬されます。

8. その後のDianaと今も残る姉妹艦

1905年8月26日ポーツマス平和条約が締結、10月11日に条約は批准され日露戦争は終結。Dianaは他の中立国(フィリピンのマニラ等)に逃げ込んで抑留されていた軍艦数隻とサイゴン港で合流。1905年11月1日にサイゴンを離れ、翌1906年1月8日にロシアのバルト海にあるリバウ港へ帰国したとあります。

Dianaは第一次大戦、ロシア革命を経て1922年にドイツへと売却され解体されました。艦長は1909年に海軍少将、1912年に海軍中将へと昇進しますがその年に53歳で亡くなります。

サイゴン港で撮影されたDiana(山があることからブンタウ付近?)

   
ちなみにDianaと同じ形式(パラダ級巡洋艦)の姉妹艦であるAurora(アヴローラ、オーロラとも呼ばれる)は、この時にサイゴン港で合流した船ですが、1917年のロシア十月革命で最初に砲撃を行い、これが冬宮殿への攻撃の号砲となったことから革命の記念艦として今もサンクトペテルブルクで係留されています。

改装されているものの姉妹艦であることから、サイゴンに抑留されたDianaがどのような船であったのか、現在でも実際に確認することができるものと思われます。

9. 現在のロシア兵が眠る場所

Mac Dinh Chi墓地から墓が撤去された後、1984年に8名の遺骨はビンズオン省のLai Thieu Cemeteryという場所に移されました。

ホーチミンのロシア領事館の管理の元、高い石碑で軍艦のマストを模して錨が描かれた記念碑の下に眠っています。

ロシア政府関係者やロシア海軍関係者がベトナムを訪問した際は、この地を訪れて祈りをささげているとのことです。

その他のベトナム歴史秘話はコチラ
【前編】幕末にサイゴンを見たサムライ達!植民地化直後の世界とは?
NEW【後編】幕末サイゴンを見たサムライ達!写真とイラストで見る当時の世界
147年前のホーチミンで岩倉使節団は何を見たのか?
全人口の10人に1人が亡くなった200年前のパンデミックとは?
19世紀にベトナムの運命を決めたのは感染症だった?
【前編】南部仏印進駐での「日本軍サイゴン入城の軌跡」を解明する
【後編】南部仏印進駐での「日本軍サイゴン入城、その後」を解明する

10. ベトナム現地事情に詳しい開発パートナー

バイタリフィVitalify Asiaでは、ホーチミンで2008年から11年超のベトナムにおける経験を踏まえベトナム現地情報の提供も行っております。

ベトナム人エンジニアを使ったソフトウェア開発経験/実績を活かし、今後ベトナム国内やアジアへ向けてITサービスを開発・展開したい、ソフトウェアを作りたいという企業もサポートしております。

Javascriptを使ったフロントエンド開発』や『アジャイル・スクラムでのサービス開発』、独自の『ベトナム法人設立前にベトナムをお試しできる拠点開設プラン』、『AI導入をお考えの方に精度や効果を無料で確認してから開発の判断ができるサービス』など様々なご要望に対応できます。いずれもお気軽にご相談くださいませ。


本記事の作成にあたっては、下記資料を参考にし、また画像を引用しております。
(ロシア語)在ホーチミンロシア領事館Facebook
(ロシア語)黄海海戦からサイゴンへの経路詳細
(ロシア語)巡洋艦Dianaの詳細
(ロシア語)輸送船Anadyrの栄光の運命
(ロシア語)サイゴンへのロシア船員の埋葬について
(ロシア語)サイゴン1905年の巡洋艦「ダイアナ」のロシア船員の記念碑
(ロシア語)ベトナム初のロシア事務所
(ベトナム語)マクディンチー墓地について
(ベトナム語)ビンズン省に眠るロシア兵