現在、ホーチミンにいる日本人の数は、在留届を出している数だけでも1.1万人超と言われています。

かつてサイゴンと呼ばれていたこの都市の歴史を紐解くと、1858~1862年の戦争で占拠され、1862年にフランスの植民地となってから約160年になります。

そんな開発が始まって間もない頃のサイゴンの地を訪れた日本人がいたことは、あまり知られていないでしょう。彼らはそこで何を見たのか?古文書、古写真、古地図など様々な情報を元に、忘れ去られた歴史について前後2回に分けて明らかにしたいと考えています。

1. 開国後、初の幕府海外使節団は東南アジアへも訪れた

1853年に黒船が来航し鎖国の時代は終わりを告げます。そして1858年に領事裁判権や関税自主権が無い、一般的に不平等条約と呼ばれる安政五カ国条約を締結しました。条約締結後、批准書交換のため幕府は使節団を送ることになります。

まずは1860年、勝海舟や福沢諭吉といったメンバーを乗せ、咸臨丸で太平洋を横断したことで有名な最初の使節団(万延元年遣米使節)です。批准書の交換はワシントンで行われましたが、その後大西洋を渡りアフリカの最南端である喜望峰を回ってインド洋を経て、世界一周して日本へ帰国したことは、あまり知られていません。

ということは経路上、東南アジアではどこに立ち寄ったのでしょうか?

ワシントンで交わした条約の批准書(幕末から既に「大日本帝国」の名称を使っていたことがわかります)

その答えは、当時書かれた古文書を昭和初期(1928~1930年)に日本史籍協会が再編纂した『遣外使節日記纂輯. 第一』256~259ページに書かれていました。

1860年10月1日(万延元年8月17日)にバタビア(現、インドネシアのジャカルタ、当時はオランダの植民地)に10日ほど停泊し、その次に停泊した場所は香港とあります。当時(1858~1862)ベトナムは、フランスとグエン(阮)朝の戦争中であり、まだ寄れるような状況ではなかったからと考えられます。

使節団が訪れる2年前、1858年のバタビアの地図。海に伸びているのが現在も残るジャカルタKota地区Sunda Kelapa港の埠頭と考えられます。

ちなみに使節団は、バタビアでこんなことを書き残しています。

◆オランダより日本に船2艘分の品物を送れば、利益は1回で約100万ドルにもなる
◆バタビアでは、(長崎より持ち込まれた)日本の醤油が売られており、4合(721ml)も入った1瓶の値段が(国際郵送費も入っているのに)45セントである。
◆一方で使節団が使っている歯磨き袋(粉)は、1つで25セントもする。
◆このことから日本商品の価値の低さ、国際競争力の弱さを嘆く

初の海外旅でありながら、経済的な視点で物事を見ている彼らの洞察力に驚きます。日本が幕末から短期間で近代化できた理由の1つには、為政者である武士たちの間でも貨幣を通じた経済的な視点を持っていたことがあるのではないでしょうか?

2. 幕末、初めて目にして記録に残したベトナムの姿

その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるなど攘夷の機運が高まったこともあり、幕府は条約で決めた新潟、兵庫の開港と江戸と大阪での開市の延期交渉を行う必要がでてきました。

そこで1862年、同じく条約を結んでいたヨーロッパへ使節団を送ります。文久遣欧使節、(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)と言われる使節団です。再び福沢諭吉が加わっています。

この使節団に同行した医師で絵の才能も有った高島祐啓が1867年(慶応3年)に書いた『歐西紀行』第1巻14ページ目にある地図には、香港とシンガポールの間に『カヲチ』と書かれているのを今回見つけ出しました。

ベトナムの歴史的呼称である交趾支那(コーチシナ)のコーチを「カヲチ」と書いたのでしょう。往路はイギリス軍艦だったこともあり立ち寄りませんでしたが、『歐西紀行』第22巻51ページに復路での記述を見つけました。

2-1. その時、日本人はサイゴンを知った

1863年1月7日(文久2年11月18日)の記録には、

交趾に到着し、この辺をムイラーヂ(湾)と言い、サンヂヨン又はセコンという場所がある。この地域はフランス領であり、都の名をシントヂヤムスという

といった記述が出てきます。

「サンヂヨン又は、セコン」これこそがSaigon=サイゴンであり日本人がこの地域を認識した最初の記述です。またシントヂヤムス、これは現在のブンタウにおいて南シナ海へ突き出た岬部分(英語でSt.James、フランス語でSt.Jacques。両方とも聖ヤコブのこと)を、誤って都として記述していると考えられます。

1791年の地図をベースに1820年に書き加えられた英語の地図。右上に「St. James岬からSAIGONまでのドンナイ川」として描かれていることがわかります。

さらに記録には、彼らが見た風景である、ドンナイ川の河口で現ホーチミン市の一部であるカンゾー(Cần Giờ )も含めて描いた絵が載っています。

また交趾港と書いて「カボチヤ」とルビを振っている理由は、ほぼ近くにあるメコン川の河口を、当時船員もカンボジア川やカンボジアの河口(BOUCES DU CAMBODGE、MOUTH OF THE CAMBODIA RIVER)とも呼んでいたことによるものでしょう。

さらに記録には、海岸に漁師の家や釣船を見たことに加え、現地の人は漢字を使うと見えて、こんな貨幣を見たとあります。(『遣外使節日記纂輯. 第二』287ページより)

この貨幣は、グエン朝の明命帝(1820~1841年)の時に発行された明命通宝でしょう。

博物館で撮影した明命通宝の現物

2-2. なぜサイゴンに寄らなかったのか?

しかし彼らがサイゴンまで行った記述はありません。その理由として考えられる箇所を見つけました。『歐西紀行』22巻50ページには、その5日前に停泊したシンガポールにおいて、

佛の本国より通信があって、佛の管内たる交趾で戦争が発生

という記述があることから、サイゴンに寄れるような状況では無いと考えたのでしょう。

上記画像のサイゴン条約締結(講和)は、1862年6月5日に実施されましたが最終的にグエン朝で承認(再確認)されたのは1863年4月16日のフエ条約とあるため、彼らが立ち寄った1863年1月7日時点では、現場では条約は結んだけど皇帝は認めていないといった不安定な情勢であったことが伺えます。

また本場のヨーロッパを見てきた後に、開発途上のサイゴンをあえて見る理由も無かったはずです。よって船は補給目的で現在のブンタウ沖のガンライ湾(当時ムイラーヂ湾と記録)に翌日まで停泊しただけとなります。

3. 昭和初期(90年前)の日本人も苦笑した幕末の旅事情

彼らの状況をより理解するため、当時の旅とはどのようなものだったのかについても紹介することにします。

ちなみに第1回遣欧使節こそ実は、初めてピラミッドを見て記録に残したサムライ達でもあります。上記は、『歐西紀行』6巻で描かれたピラミッドの絵

彼らの旅は、大阪毎日新聞が昭和3年(1928年5月17日~30日)に、文久遣欧使節をテーマに記事として紹介しており、90年前の日本人も思わず苦笑したサムライ達の珍道中が描かれていました。

3-1. 初のヨーロッパ旅行に何を持って行くべきか!

船はイギリス軍艦のオーヂン号でスペースの関係から少しでも荷物を減らしてくれという話があったので甲冑、槍、駕籠(かご)、挟箱(はさみばこ)などはあきらめたものの、使節3人分の手槍と鞍、鐙等の馬具は必須だと考え船に持ち込んだ。
食料として味噌は欠かせないという話になり、腐りやすいから止めた方が良いと意見を言った人は、部外者は黙っていなさいと言われてしまう。そして武田信玄以来の(腐らない)万年味噌を知っているという人に騙されて味噌を船に持ち込むも、香港とシンガポールの間(ちょうどベトナム沖)で、耐え難い臭いを発して船側からクレームが付き、龍王に献上(海に投棄)することになった。
また宿泊の際に必要だからという理由で、鉄網作りの行灯を何十台も作って、さらに提灯、手燭、ボンボリ、蝋燭等もフランスまで運んだが、結果的に使われず全て現地で引き取ってもらうことに・・・


往路に彼らが乗ったイギリス軍艦のオーヂン号

アメリカと違って、ヨーロッパでは全て鉄道と馬車で移動できると信じられなかった為、徒歩移動用に草鞋(わらじ)1000足分が必要という話になり(不要だという意見は無視)、幕府内の各部署に用意を頼むがたらい回しとなる。ようやく出来上がった草鞋は、別の船でフランスへ送るものの、結果的に使うことは無くフランスにお願いして廃棄となった。
ちなみに、現地で靴を買って履くという行為は、「神州の大恥辱」という認識だったとあり、香港で使節団のメンバーの1人が洋靴を買って履いたところ、副使松平石見守(33歳)が大激怒。「国風を乱すものは、日本へ追い返す」という話になって謝って許されたとある。

まるで修学旅行における引率の先生の様です。

3-2. 忍耐あり、盛り上がりありの船旅

船内の水は鉄の容器に貯蔵されていたため、水は錆びで濃茶色となり、その水で炊いたご飯は茶飯のようになる。粥にした場合は味噌雑炊のようになり、見るに堪えないので目を閉じて食べたとある。このような船上の苦しみは、生涯忘れることは無いと記録に残している。


復路の赤道付近、船上でのお祭りの様子。ホースから海水をかけて楽しんでいる。

往路の香港出航後(ベトナム沖)で、南北戦争の影響でアメリカとイギリスが戦争状態になったという噂が流れたため、軍艦は突如戦闘態勢となる。これを聞いた使節団一行は、今こそ我らが日本刀の切れ味を試すときだと、酒を飲んで大いに奮い立ったが、シンガポールへ着いて誤報だとわかって一同安堵した。

3-3. ヨーロッパでもトラブル続き

フランスでは慣れない洋食(肉が多く、魚があっても揚げており、野菜も少ないし油を使用)に苦労した一行。そこで魚を買ってきて刺身にして、日本から持ち込んだ醤油で味わっていたところ、日本人は南アメリカにいる生肉を食べている原住民と同じだという評判が立ってしまった。


ヨーロッパで撮影された第1回遣欧使節団のお偉いさんたち

ホテルで便所の扉を2つ全開放したまま家来が廊下に出て衣類を持って待っており、お偉方が大便をしていたところ、男女が通る人通りが多い廊下からは丸見えだった。気づいた福沢諭吉が慌ててドアを閉めたとある。

他にも福沢諭吉がロシアにて、日本へ戻っても仕方がないという口上でヘッドハンティングの勧誘を受けた話なども載っており、サムライ達による初めての海外旅事情が見て取れます。

4. サイゴンの地を初めて踏んだ日本人は誰か?

さて、上記延期交渉に成功した使節団が帰国して1年後の1864年、ますます高まる攘夷の気運を元に、井土ヶ谷事件で殺害されたフランス軍士官への謝罪と、開港を約束した横浜の閉鎖交渉を行う使節団が出発します。第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節団)です。使節団には、後に日本経済新聞の前身や三井物産を創業する益田孝もいました。

彼らは、フランスでナポレオン3世と会う予定であったため外交上、往路にサイゴンで植民地のフランス総督を表敬訪問する必要があったと考えられます。

スフィンクスの前で撮影したことで有名な第2回遣欧使節、横浜鎖港談判使節団こそが、サイゴンを初めて訪れた日本人達でもありました。

4-1. ついにサイゴン初上陸

往路、香港を経て1864年3月1日(文久4年1月23日)の夜の内から前回と同じブンタウ付近に停泊し翌朝、同奈川(ドンナイ川)を遡上。永代川口(隅田川河口)よりもはるかに大きいと、河口の大きさや川幅の広さに驚いた様子が記録に残ります。『遣外使節日記纂輯. 第三』195ページより

ドンナイ川に繋がる、当時のサイゴン川の古写真

3月1日ハツ時(午後2時)に七人にてサイゴンへ上陸。現地でさっそく購入したのは、5瓶で1ドルのお酒でした。

上陸した”使節の方々”は、騎兵の警備に守られて馬車に乗って佛の奉行官(フランス総督)に会いに行き、笛や太鼓が奏でる中のご馳走や、警備隊付きの象を見物するなど、歓待を受けます。なお宿泊先は同じ船だった様です。誰が上陸したのかは書いてありませんが、確実に上陸したと考えられるのは、正使である池田長発(ながおき)でしょう。

池田筑後守長発、当時わずか27歳。少年時代に昌平坂学問所で学び成績は抜群に優秀で、25歳で目付、その後は火付盗賊改、京都町奉行、外国奉行などを歴任したエリートでかつ容姿端麗。彼こそが初めてサイゴンの地を踏んだ日本人となります。

4-2. 開発が始まったばかりのサイゴン

では彼が見たサイゴンはどんな世界だったのでしょうか?まず、現ホーチミンの象徴的な建物であるサイゴン大聖堂の前身「サイゴン教会」は、1863年に現在(日本企業が多く入る)サンワタワーの場所に作られました。

木造のサイゴン教会のオープン時。この教会は10年も経たずにシロアリ被害により崩壊したとあり、1880年に現在のサイゴン大聖堂として再建されます。手前の橋は、現グエンフエ通りに水路があったころ、架かっていた橋です。

また使節が訪問した総督公邸は、現在のチャンダイギア学校(リートゥーチョン通りとハイバーチュン通りの交差点)の場所でした。

当時のサイゴンのスケッチ。一番上が商館(ヨーロッパ初の商社とある)、真ん中がカフェで、一番下にあるのが当時のフランス総督公邸とあります。シンガポールから運ばれた材料で建築されたという公邸内はこんな感じでした。

室内に掲げられた絵は、左がナポレオン3世、右がウジェニー皇后です。彼がフランス総督と会った場所は、おそらくこんな場所だったことでしょう。

また現在ホーチミン博物館(ドラゴンハウスとも呼ばれる)となっているニャロン埠頭にある建物は、郵船会社の本部ビルとして1863年3月4日から建設が開始されて1年で完成したとあるので、ちょうど出来上がったばかりでした。

ちなみに現在もある船の出入りを知らせるために作られた高さ40mの鋼鉄製の旗竿(mât des signaus)は、1865年10月に建設の為、おそらく彼らが見たサイゴン港は、まだ旗竿が無い上記写真のような風景だったと考えられます。写真内の橋の場所が現グエンフエ通りです。

現在の地図と当時(1863年)の地図を比較するとこんな感じとなります。クリックすると大きいサイズで確認できます。現在のグエンフエ、レロイ、ハムギー、パスターといった主要な通りには、水路がありました。現在、このレロイ通りの真下に地下鉄を作っています。

4-3. 使節団のその後・・・

計1日ほどのサイゴン滞在を終えた使節団は、翌日フランスへと向かい、ナポレオン3世に謁見します。しかし既に開港していた横浜(しかもフランスが日本進出の拠点にしようとしていた場所)を再度閉じさせてほしいという交渉は、そもそも無茶な要求であったことから認められるはずがありません。

フランスで撮影された第2回遣欧使節団。写真では、中央の正使池田より右の副使の方が態度がでかい(笑)

現地で西欧の強大さと開国の重要性を認識した彼は、交渉目的自体がそもそも無意味と悟り他国へは行かずに、多数の書物や資料をフランスから持って1864年8月18日に日本へと帰国します。そして開国派として開港の継続や留学生派遣などの建白書を出したものの、結果は残念なものでした。

フランスで初めて名刺を作るなど進取性に富んだ人物だったこともわかります。

頭の固い幕府中枢からは、交渉を打ち切って帰国したこと咎められ蟄居に加えて禄高は半減、若くして隠居することになります。その後1度は復活したものの健康を害していた為、退任することに。その後、領地である井原での教育に力を入れようとしましたが1879年(明治12年)に43歳で亡くなりました

井原には長発の銅像が立てられるなど現在、地元では顕彰されている人物です。

5. 同時期に同じ境遇に置かれた、あるベトナム人の物語

話は変わりますが、遣欧使節の第1回と第2回ちょうど間の1863年に、ベトナムのグエン朝もフランスへ使節団を送っていたことはあまり知られていないでしょう。目的は、既に合意した1862年のサイゴン条約の条件撤回にありました。

フランスとの戦争に敗れたグエン朝は、以下の条件を受け入れ講和します。

◆コーチシナ東部3郡(ザーディン、ビエンホア、ディントゥオン)とサイゴン及びコンダオ諸島の割譲
◆ダナンを含む3つの開港
◆賠償金の支払い
◆キリスト教の容認

当時の皇帝は、以前の記事で取り上げた第4代嗣徳帝(トゥドゥック)。彼は、この東部3州の割譲を撤回させるよう命じてフランスへ使節団を送ります

ベトナム使節団の代表は、潘清簡(Phan Thanh Giản、ファン・タン・ジャン)という人物です。1796年に中国系の移民とベトナム人の間に生まれた彼は、貧しい家庭であったものの苦学して科挙に受かり30歳でエリート官僚への道である進士に及第(上位3位内に入るほどの成績)。その後、ベトナムの歴史注釈書である「欽定越史通鑑綱目」を編纂、枢密大臣にもなるなど非常に優秀な方でした。また1862年サイゴン条約の締結も彼によるものです。

上は、1863年11月21日にナポレオン3世に謁見したベトナム使節団
下は、1862年4月13日にナポレオン3世に謁見した日本の第1回遣欧使節(第2回使節も同様に1864年4月29日謁見)日越両使節の違いが興味深い。

以前のサイゴン条約での交渉を通じて正攻法での説得が難しいとわかっていた潘清簡は、自身の”67歳という年齢を武器に情に訴える作戦”を取り、ナポレオン3世と皇后の心を動かして一旦はコーチシナ東部3郡の返還を取り付けます。

しかし元々無茶な要望であったこともあり、軍事力による植民地化政策を推し進める海軍兼植民地大臣の強烈な反対を受けて撤回されてしまい、返還されることはありませんでした。

その海軍兼植民地大臣(上記写真)の名前こそが、後に功績をたたえられサイゴンの通り名や高校に名を遺したシャスル=ローバ(Chasseloup Laubat)です。

そして彼の名前が付けられた高校の場所が数十年後、さらに強力な軍事力でフランス植民地をそのまま支配下に置く日本軍駐屯地(部隊の本部)となったのは、歴史の皮肉と言えるでしょう。

フランスで撮影されたベトナム使節団一行。前列の中央が潘清簡

交渉後、フランスから偶然にも「Japon(日本)」という名前の船に乗り、第2回遣欧使節団がサイゴンを去って約2週間後の1864年3月18日、8か月半ぶりにベトナムへ帰国します。

彼は、現地で見た西洋文明の凄さ、フランスの強大さを皇帝に伝えますが、皇帝は時がたてば嵐は過ぎ去るとばかりに関心を示さず、何も手は打たれませんでした。

そしてフランスは保護国としていたカンボジアへのアクセスや背後の安全を確保するため、1867年にコーチシナ西部3郡(ハティエン、アンザン、ビンロン)の割譲も要求します。サイゴン条約で決めたことを守らず、東部3郡を取り返そうと抵抗運動の支援をしているという理由も付けてきました。

1881の地図だが左側にある黄土色、緑、紫の個所が西部3郡。右側にある黄色、ピンク、青が最初に割譲した東部3郡

フランスの要求は、当然のことながら現実を分かっていない嗣徳帝によって拒否され、ビンロンへの攻撃が始まります。しかし実際にフランスを見てきた潘清簡には、圧倒的な戦力差があり前回から何も変わっていないグエン朝では到底勝ち目がないことを理解していたでしょうし、植民地となったサイゴンも見ていた彼はフランス統治下でも住民が生きていけることも知っていたのでしょう。

西部3郡の総督を務める彼は、無駄な流血を避けるためハティエン、アンザンへ抵抗ではなく住民の安全を確保することを優先するよう手紙を送ります。

これについては現代でも様々な評価がある様ですが、進士及第で歴史書を作ったほどの知識人であるのなら、自身の選択が後の世で”南宋における秦檜”の様な評価を受けることになると分かっていた上での決断であったと筆者は考えています。

彼は責任を取って15日間絶食したのち毒を飲み、72歳で亡くなりました。文官ではあるもののある意味、”ベトナムのサムライとして生きた”とも言えるのではないでしょうか?

死後、皇帝は自分に従わなかった彼の官位を全てはく奪するなどし(19年後に第9代皇帝より名誉回復)、南ベトナム時代には売国奴の評価も受けますが、彼の地元アンザン省では、廟が建てられるなど今でも尊敬をされています。

なお西部3郡は、1867年のフランス占領の後、1874年3月15日の第二次サイゴン条約でグエン朝も認め、正式にフランス領コーチシナに組み込まれました。

潘清簡と池田長発、年齢も国も違いお互いに会うことはありませんでしたが、ほぼ同時期にフランスへ渡りその優秀な頭脳を活かして現地を見ることで、相手の強大さを知り変化を母国で訴えるものの、その願いはかなわず最期を遂げます。そして現在では、地元で慕われるなど日越でよく似た人生がそこにありました。

さて、まだまだ続きますが長くなりましたので続きは、下記後編へ。
NEW【後編】幕末サイゴンを見たサムライ達!写真とイラストで見る当時の世界

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【後編】南部仏印進駐での「日本軍サイゴン入城、その後」を解明する
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