前回は、南部仏印進駐における一大イベント「サイゴン入城式」において行軍中に撮られた写真が現在地のどこにあたるのかを調べて紹介しました。

今回は、日本軍はそれからどこへ向かったのか?サイゴンのどこに駐屯したのか?といったさらなる疑問について調べてみました。さらに「その後」についても紹介しています。外出自粛の中、自宅で過ごす際の読み物としてお役に立てれば幸いです。

なお一番最後まで読んでいただければ、「おまけ」も付いています(笑)

1. サイゴン入城式後の移動先

前回の4枚目の写真では、自転車部隊と一部の車両部隊の進行方向が異なるため、部隊が分かれたことが見て取れます。

以降の写真はありませんが、2つに分かれた部隊はどこを進みサイゴンのどこに駐屯したのでしょうか?なお一部の部隊は8月2日にカンボジアのプノンペンへ向かいましたが、サイゴンに留まった部隊も多くいたはずです。

ホーチミンにあるマジェスティックホテルが「日本ホテル」と名前を変えたことは知られていますが、そんな高級ホテルに滞在できるのは、司令官や参謀といった高級将校だったはずです。

日本軍の駐屯地については、「日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題 – 防衛研究所」といった資料がありました。27ページ目にはこうあります。

サイゴンでの宿営地の一つは、当時のシャスルローバ通りに面した学校を接収した建物で、3 階建てであった。歩兵第82連隊は、そこに連隊本部、直轄部隊、そして、1 個大隊を収容した。また、そこから数分のところには、同連隊の歩兵砲部隊が、倉庫を兵舎に改装した建物に、第21 師団通信隊の一部と同居していた。

なお、サイゴンでは、既存の施設を使用するだけでなく、兵舎を新設している。場所はサイゴンと隣町のショロンの中間で、サイゴンの街の中心部から歩いて 20 分ほどのところであった。建物はバラック建てであったが、床はコンクリートで、電灯設備があり、水道も完備され、水洗トイレにシャワー付きで、「戦地としてはまあまあの設備」であった。また、サイゴンに駐留する部隊が演習場としていたのは、各兵舎から近いところにある無電塔の下の広場であった。

見つかった資料はこれだけです。なお当時のサイゴンにおける日本軍駐留の生活は、この資料にまとまっています。

さてこの文章が指し示す場所です。写真や地図は無いので、上記文章、古地図、状況証拠から場所を推測し探し出すことにします。

2. 日本軍の駐屯地1:シャスルローバ通りの学校とは?

当時の地図はフランスの植民地だったことから全てフランス語なので、シャスルローバ通りのスペルが分からず苦労しましたが、解像度が高い1937年の古地図の通りを1つ1つ見て行ったところ、Rue Chasseloup Laubat(Rueは、フランス語で「通り」の意味)が見つかりました。

そしてそこは現在のグエンティミンカイ通り(Nguyễn Thị Minh Khai)です。

そしてこの通りに面した学校は、Lycée Chasseloup Laubat(シャスルローバ高校、Lycéeは高校の意味)です。あのカンボジアのシアヌーク国王もここを卒業しました。

その位置は現在のレクイドン中学校及び高校(Lê Quý Đôn)にあたる場所であり、ここが日本軍の駐屯地でほぼ間違えないという結論に達しました。その理由を3つ挙げます。

2-1. ここが駐屯地と考えた理由1

道路を挟んで隣がフランス側のトップであるインドシナ総督が住むノロドム宮殿(地図の53番)であり、利便性が良くまたフランス側へ心理的にも圧力をかけやすい

2-2. ここが駐屯地と考えた理由2

3階建ての建物でかつ敷地が広く、それなりの部隊(連隊本部、直轄部隊、1個大隊=700~800名)の駐屯に適した広さであること

2-3. ここが駐屯地と考えた理由3

そしてこれが決め手ですがノロドム宮殿と反対側の通りを挟んで、当時の日本領事館(地図の29番は、Consulat du Japon)があるため、連絡を取りやすいこと

つまり現在のローカルレストランがある22 Võ Văn Tầnには、戦前/戦時中に日本領事館が存在していたということです。

3. 日本軍の駐屯地2:謎だらけの場所、新設した兵舎?

場所はサイゴンと隣町のショロンの中間で、サイゴンの街の中心部から歩いて 20 分ほどのところ (中略) サイゴンに駐留する部隊が演習場としていたのは、各兵舎から近いところにある無電塔の下の広場であった。

本記事のメインコンテンツが始まります。まるで何とか埋蔵金のありかを探すかのような、難易度が高い場所です(笑)

まず無電塔を探しますが、英語、フランス語、ベトナム語でどれだけ探しても一切出てきませんでしたので、1930年代のサイゴン・チョロン付近を撮った航空写真を丹念に探していったところ、たった1枚だけ見つかりました。(1930年代初頭に撮影とあります)

上部に写る8本(左右にある薄い2本もいれれば10本?)の「細長く巨大な何か」が写っています。そもそもですが当時の無電塔とは、どういったモノなのでしょうか?

探したところ同時代1929年に日本から欧州へと通信を行った世界最大級の無線送信施設「依佐美送信所記念館」に送信空中線鉄塔に関する資料がありました。

高さ250m、1塔ごとの間隔(距離)は480~500m、設置面積は幅1.5kmで奥行き500mにもなり、数も8本と写真とほぼ同じです。
仏領インドシナが本国フランスへ直接連絡を取ったとするなら、同じものがサイゴンにあってもおかしくはありません。よって上記の写真に写る細い線が無電塔に間違えないでしょう。

そして先ほどの古写真の真ん中には、教会のような高い建物が写っています。

これは川からの位置関係と方角から、1905年に作られたHuyen Sy教会(正式名はSt. Philippian Apostolic Church、現在の「9月23日公園」バスターミナルの向かいに位置)と考えるのが妥当です。

上記は、当時のHuyen Sy教会の写真です。ちなみに本記事一番最初のタイトル画像(アイキャッチ)は、ベンタイン市場前の広場と当時のサイゴン駅ですが、駅の後方方向にこの教会が写っており、高層ビルが無い当時は、一際高い建物であったこともわかります(おそらく無電塔設立前の写真です)。

そしてGoogle Mapの航空写真モードで角度をかえて、左が4区の沿岸で奥の右側が1区、手前から右上にサイゴン川を配置し、古写真と同じようにしたのが下の画像です。

サイゴン川と4区より1-3区の方向を望む。赤い印がHuyen Sy教会なのでその後ろのエリアが無電塔でかつ駐屯地があった場所になります。

ところで新設された兵舎は、日本の敗戦後どうなったのでしょうか?普通に考えるのなら、そのまま再度侵攻してきた連合軍で再利用されるはずです。

そこで戦争前の地図(1937年)には無くて、戦後すぐの地図(1946年の地図・・・戦後フランスより先に進駐したイギリスが作成したので英語表記。1942年の地図を元に1945年12月の航空写真を元に補正して1946年3月に作成)では存在するその付近の軍隊駐屯地を、古地図から探しだしたところ見つかりました。

上記図の左下エリア(無電塔が存在したであろう付近)の拡大です。何もない空白の土地が多く、巨大な無電塔があっても不思議ではありません。

上記132番、Régiment Annamiteを見つけました。フランス語を訳すと「安南連隊」。安南は当時のベトナム中部大半を差し、ベトナム人は安南人とも当時は呼ばれていました。連隊の規模は、一般的に第二次大戦中で3000人ほど。それが滞在できる駐屯地であることがわかります。

ちなみにイギリスの進駐後、日本兵はブンタウの収容所へと送られました。写真は日本兵自らが収容施設を作っている様子です。

よって進駐したイギリス(及びフランス)により、かつて日本軍が使っていた兵舎は、新たに編成したベトナム人部隊に使わせた・・・と考えることもできるのではないでしょうか?

また日本降伏により権力の空白が生まれ、ベトナム独立に伴う争い※が各地で始まった混乱期に、ごく短期間でこれだけの兵舎を新設できるとも考えられない為、再利用の可能性が高いと考えられます。(※今回は話が外れるので触れませんが、詳しく知りたい方は「マスタードム作戦」を参照)

ここを現在の地図と見比べると、現在のCo.op Mart(スーパーマーケット)もある付近一帯(Phường Nguyễn Cư Trinhというエリア)ということがわかります。

さて、他の条件の検証です。サイゴン中心部がどこを指し示すのかですが仮に入城式を行った駅前のベンタイン市場とすると、ほぼ同じ道路が通っている現在でも徒歩19分となります。またこの場所は、ちょうどチョロン(アンドン市場より西側)とサイゴン中心部の中間に位置し記述にも該当します。

かつ駐屯地1(下記図の統一会堂とベトナム戦争証跡博物館の間付近)からも道路1本(現グエンティミンカイ通り)で合流し、すぐ近くの無電塔の下の広場(演習場)へもアクセスしやすいと考えられます。

またこの場所とすると、前回の4枚目の写真(サイゴン入城式)で部隊が2つに分かれた理由がハッキリします。

ハムギー(Hàm Nghi)通りを経てベンタイン市場側に向かった車両に乗った部隊は、そのまま現レロイ(Lê Lợi)通りへと右に曲がりさらに現在、高島屋がある場所で左に曲がって現ナムキーコイギア(Nam Kỳ Khởi Nghĩa)通りを進むことで現在のレクイドン高校に到着する

一方で主に自転車に乗った部隊は、この写真で先端が左側を向いていることから、そのままサイゴン駅(現在の9月23日公園)左脇を通る現ファングーラオ(Phạm Ngũ Lão)通りを突き当りまで進み、現コンクイン(Cống Quỳnh)通りを進むことで目的地へ到着することになります。

よって以上の状況証拠から日本軍の駐屯地2つは、これらの場所という結論に至りました。

4. サイゴン入城式はいつ行われたのか?

まだ1つ大事なことが分かっていませんでした。前回取り上げたサイゴン入城式が行われた日付と時刻です。こちらもWEBサイトによって記述がバラバラなのでハッキリさせようと思います。

当時のニュース映画では、7月30日の午後4時にフランス側の司令官が日本軍の船に来訪しその後、上陸と行軍をして、翌日7月31日の朝に飛行部隊がサイゴン近郊基地に降り立ったとあるため、7月30日の夕方~夜に実施されたようにも見て取れますが本当でしょうか?

まずこちらはサイゴンへの入城を伝える1941年8月1日の新聞ARGUSの一部です。

この記事には、London, Thursday(木曜日)とあり、木曜日は1941年7月31日でした。よって入城式(行軍)は、7月31日に3時間実施されたものと思われます。

次に実施時間です。同じニュース映画内のどこかに時計でも映っていないかなと調べたものの見当たらなかったので、映像内の影の向きと方角から推測することにしました。

映像の06:16ですが左側から光が当たり橋を渡る車両の影が、映像の右側に出ています。地図に当てはめると、撮影時に東側から太陽光が当たっていたことがわかり、これは午前の早い時間であったことを意味していると考えられます。下の図は、写真と合わせて上が南側なのでご注意ください。

次に入城式を行った場所ベンタイン市場前の広場です。

映像の06:55ですがこの日の当たり方(奥は、右から日が当たり、手前は、建物の影になっている)を見ても、ほぼ真東から太陽光が照らしており、朝の早い時間と考えられるのではないでしょうか?
ちなみにこちらのサイトでは、ホーチミン(サイゴン)における1941年7月30日(なぜか7月31日は無い)の日の出時間は、AM5:43とあります。

以上から、1941年7月31日(木)のサイゴン時間の朝(6時~9時)に3時間ほどの行軍(入城式)を実施したという結論に至りました。

また映像の07:39以降において同7月31日の午前中に、サイゴン近郊の基地(映像の背景の遠くに山が写っていることからビエンホア基地と推測。現在のビエンホア基地跡から撮影された山が写った写真の記事参照)に航空隊も着陸したことは、空と陸から同じタイミングで進駐をしたことになり、強いインパクトをフランスに与えることを意図したものと思われます。

5. 南部仏印進駐の結果は、どうなったのか?

南部仏印進駐により対米関係は決定的に悪化し、石油の禁輸が決まり太平洋戦争開戦へと繋がりました。これが日米開戦の回帰不能点(その地点を越えると戻れなく進むしかないようになるポイント)と言われる理由です。

南部仏印進駐は、イギリス領のマレーやシンガポールを航空機による射程圏内に収めることを狙っていたこともあり、開戦後はさっそく活用されます。イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを航空機による攻撃だけで撃沈した有名なマレー沖海戦です。

上記攻撃経路図にある通り、日本の攻撃機が飛び立ったのは、サイゴン基地(現タンソニャット空港)とツダウム基地(又はツドゥム基地)でした。ちなみに後者ですが、ビンズオン省にあるThủ Dầu Mộtという街にかつてあったフーロイ飛行場(Sân bay Phú Lợi)と考えられます。

写真はベトナム戦争時のモノですが、GoogleMap上では今でも滑走路跡らしきものが見えます。

6. これらの場所におけるその後・・・

日本軍の支配下となったサイゴンは、地上戦(市街戦)は無かったものの連合軍による空襲を受けたことはあまり知られていません。

1945年1月12日のアメリカの空母タイコンデロガ艦載機による爆撃により、2隻の日本貨物船とタンカーがサイゴン川に沈没しました時の写真です。ちなみにこの場所は、3年半前に日本軍の上陸地点です。

そして日本は無条件降伏。日本本土での降伏式典は、戦艦ミズーリの艦上でしたが、サイゴンの現地駐屯部隊の降伏式典(イギリスへ刀を渡すセレモニー)は、こちらの写真によるとタンソニャット基地(空港)で実施されたとあります。

そして時は流れ現在、タンソニャット空港の国際線ターミナルは日本のODAにより建築され

サイゴン入城式を実施したベンタイン市場の前でも、日本のODAが活用されて地下鉄が建設中です。

また日本軍の駐屯地だったシャスルローバ高校の敷地には、「ホーチミン市村山富市日本語学校」があり、多くのベトナム人の方々が日本語を学びました。さらに、もう1つの駐屯地付近※には、ホテルニッコーサイゴンがあり多くの日本人が利用しています。(※住所のPhường Nguyễn Cư Trinhが共通、日本でいえば「〇町目」といった行政区分けまでが同じようなもの)

歴史は、日越の不幸な時代を乗り越えて現在・未来へと繋がっていることがわかります。

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<おまけ>
ここまで調べて書き上げた後に見つけました。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」より。

【サイゴン本社特電三十一日発】サイゴン港岸壁の船中で一夜を送ったわが仏印増派部隊はその先鋒生沼部隊から〇○を先頭に続々下船、三十一日午前六時サイゴン埠頭に感激の行進を起した、各将兵は埠頭に待機していた自転車、トラック、戦車に分乗、隊伍を整え威風堂々市中行進を開始、延々と続くわが精鋭部隊の威容を見るべく沿道に十重二十重にならぶ安南人の歓呼を浴びつつ税関前からアロヨ・シノア河の橋を渡りインド支那銀行など銀行商社の立ちならぶビジネス・センターをソンム通に出て、サイゴン市の中心たる停車場前に設けた閲兵台上に立つ小林部隊長の感激的閲兵をうけたのちコロネル・ブードンネ通を行進

・アロヨ・シノア河の橋(現在の4区と1区の境界にあるKhánh Hội橋)
・ソンム通(現在のHàm Nghi通り。ベンタイン市場に繋がる通りである)
・コロネル・ブードンネ通(現在のPhạm Ngũ Lão通り)

31日の朝6時の開始も含めて今回の推測は正解でした。最初に見つけていれば・・・映像内の影の向きまで見て、時間帯の割り出しまでせずに済んだのに(苦笑)


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