2020.05.26

ベトナム情報

ベトナム歴史秘話~147年前のホーチミンで岩倉使節団は何を見たのか?~

1873年(明治6年)、フランスの植民地になってからまだ11年しかたっていない初期のサイゴン(現ホーチミン市)を日本の首脳陣たちが訪れて見聞きしたことは、あまり知られていません。

彼らは、どこを訪れ、どこに宿泊し、何を見たのか?彼らが訪れた当時どんな世界だったのか?そこは現在どう変わったのか?

当時書かれた文献、古写真、古地図など各種ネット上にある情報を元に、147年前の岩倉使節団サイゴン訪問について調べてみました。

1. 岩倉使節団とは何か?

明治に変わって間もない明治4年(1871年12月)から明治6年(1873年9月)まで、岩倉具視をリーダーとして、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった政府首脳陣が1年9ヶ月に渡って欧米諸国を旅してまわった使節団です。

目的の1つである不平等条約の改正は実現できなかったものの、欧米先進国の文物視察と調査を行ったことでその後、日本の近代化へ大きな影響を与えました。彼らは最初、太平洋を渡ってアメリカへ、その後大西洋を渡りヨーロッパ各国を回った後、東周りで世界一周して日本へと帰国します。

この岩倉使節団の公式報告書は、同行した久米邦武によって『特命全権大使米欧回覧実記』として1878年(明治11年)に出版され、現在は国立国会図書館のネット上で一般公開されています。

今回この『第5篇 欧羅巴大洲ノ部 下』の214~219ページにサイゴン(柴棍)について書かれていることを見つけ出しました。

なお当然のことながら明治11年に書かれた文章の為、旧字体の漢字とカタカナが交じりかつ、当時の表現であるため現代日本人が読むには分かりづらいです。

ちなみに全文ではないものの「メコン圏と日本(地域・人)との繋がりを辿る」のサイトに現代語訳されて掲載されていますので、読みたい方はそちらを見ると手っ取り早いです。

よって本記事では、原文に書かれていて上記現代語訳には載っていない事柄や、書かれていたことの背景と深掘り中心に当時の古写真も交えて紹介することにします。

2. なぜサイゴンに立ち寄ったのか?~現代にもある政策~

帰路、フランスのマルセイユを出発した使節団を乗せたフランス船アウア号は、現スリランカのゴール港を経てマラッカ海峡を通り、シンガポールへと立ち寄ります。しかしちょうどその時、シンガポールでは感染症であるコレラが流行しており、使節団は上陸することができず、水や食料燃料を補給して次の寄港地であるサイゴンへ向かいます。

アジア歴史資料センター「岩倉使節団」特設サイトより、使節団の帰路

サイゴンの次の寄港地は、香港(東アジア)であったため、岩倉使節団が東南アジアで唯一上陸して見聞きした場所がサイゴンでした。彼らにとってはゴール港以来、10日ぶりに大地の上に立つことができた場所でもあります。

1873年8月21日の夜6時半に、「セントヂョンス」岬、現在のブンタウ付近で停泊した船は翌朝、ドンナイ川を遡上して8月22日の午後1時にサイゴンへ到着します。そして翌8月23日の正午に再度船は出港したとある為、わずか23時間の滞在でした。

報告書には植民地の総督に面会したという個所は一切出てこないので外交目的ではありません。なぜ短時間なのにサイゴンへ立ち寄ったのでしょうか?実は、報告書(原文)にその理由が書かれていましたので現代語訳します。

フランス政府が年800万フランものお金を郵船会社に支払って、サイゴンに立ち寄る様にさせている。現地の交通利便性を高めて植民を進め、またこの地で旅客が消費することによって地元にお金が落ちるようにし、経済を成り立たせようとした。それゆえ郵船会社は必ず立ち寄って2日ほど停泊をしている。

この6年くらい前のフランス領コーチシナ政府の歳入が年300万フランと言われていることから、相当な額が補助金として支払われていたことがわかります。

現在、日本の地方空港が海外から観光客(インバウンド消費)を呼び込むために、エアラインに補助金や優遇措置を出しているのと同じことをこの時代からやっていたことがわかりますね。

サイゴンにあった郵船会社Messagerics Maritimes社の当時の船。蒸気船だが信頼性の関係から帆船機能(マスト)も存在した時代。使節団が乗ったアウア号も同じような船と考えられます。

よって使節団がサイゴンに立ち寄ったのは、現地でお金を落とすことを期待されてのトランジット(乗継)滞在であり、短時間の観光を通じて見聞を広げたことになります。

3. サイゴンの観光地、1873年に何が存在したのか?

1862年のサイゴン条約で正式に植民地になってからまだ11年、船会社に補助金を渡して立ち寄ってもらう様な、まだ開発初期段階の時代です。この当時のサイゴンにどのような観光地があったのでしょうか?

現在、ホーチミン市の主な観光名所でフランス植民地時代の古い建物と言えば、こんな場所があります。

①サイゴン大教会/聖マリア大聖堂(1880年に完成)
②ホーチミン市博物館(1890年に完成)
➂サイゴン中央郵便局(1891年に完成)
④ホーチミン市民劇場(1897年建設)
➄ホーチミン人民委員会庁舎(1908年に完成)
⑥ベンタイン市場(1914年に完成)

よって岩倉使節団が滞在した1873年当時は、いずれも存在していませんでした。

報告書では、

「羅馬教即チ天主教ノ寺モアリ、造船場、病院、穀倉アリ、ミナ見ルニ足ラス」
キリスト教会、造船所、病院、穀物倉庫などがあるものの全て見るに足らない

とあり、彼らが本場ヨーロッパで見てきたものに比べると、まだ開発途上であったサイゴンの様子がわかります。

3-1. 使節団が驚いたサイゴンの観光地とは?

そんな彼らが観光して驚いた場所が実は現在でも観光地として存在します。それが報告書では「草木園」と書かれている現サイゴン動植物園です。

「区域広大ニテ、修掃至ラサレ」
広大な敷地で手入れは十分ではない

と書かれてはいますが、巨大な根を張り大きな葉をつける、彼らが今まで見たことも無い熱帯地域の植物に驚いた様子も書かれています。

3-2. サイゴン初の観光地ができた経緯

この場所の歴史はコチラで紹介されています。

コーチシナ総督によって1864年の3月23日に建設が承認されましたが、カルカッタ植物園の責任者も務めたフランスの植物学者Jean Baptiste Louis Pierre(ジャン・バティスト・ルイ・ピエール)が1865年に呼ばれて1877年まで12年間監督を務めたのが、植物園がサイゴン初の観光地となった要因と考えられます。

当初この場所は、主に経済的な目的で栽培に適した植物の種などを研究することでしたが、ピエールが集めた豊かな熱帯植物のコレクションが注目されて評価されたことから、1869年2月17日から植物園として一般公開されるようになりました。

おそらく岩倉使節団が見たころのサイゴン植物園の古写真(馬車も写っている)

その後、使節団は馬車を南方に走らせて新隆県、当時の欧米人が「チャーレン」と呼んでいる場所(現在のチョロン)へ向かいます。なお現在チョロンは同じホーチミン市ですが、当時サイゴンとは別の街(行政区域)でした

4. サイゴン~チョロン車窓から見えた1873年の風景

ここでは、彼らが目にしたであろう2つの場所を紹介します。

4-1. 「統一会堂」以前にあったノロドム宮殿

ホーチミンの観光名所である「統一会堂」は、1966年の建設ですが建て替えられる前は、植民地の総督が住むノロドム宮殿がありました。この建物は1873年に総督が移り住んだものの、装飾工事が完了したのは1875年とあります。

報告書内には記載がありませんが、おそらく移動中の馬車からは、建設中のノロドム宮殿が見えたことでしょう。なお当時はもちろん観光地ではありませんし、表敬訪問でも無い為、立ち寄ることは無く、それゆえ記録にも出てこなかったと考えられます。

外観がほぼ出来上がった状態で岩倉使節団が見た頃と考えられるノロドム宮殿の写真

ちなみにチョロンまでの道は、3英里(マイル)=約4.8キロであり、

「平地ニテ路修ラス尚車ヲヤルニ堪ヘタリ」
平地なのに凸凹道で馬車の乗り心地が悪くひたすら耐えた

といった当時の道路事情が見て取れます。

4-2. 現在は存在しない「墓の平原」

さらに彼らが見たのは、墓でした。報告書にはこうあります。

「田中ニ墓アリ、両両三三ヲ処処ニミル、安南モ支那ト同ジク嫌忌多シ、墓地ヲ相シ、田中ノ一区ヲトシテ此ニ葬ル、故ニ家墓累累タリ」
田の中に墓があって2~3並んだ墓があちこちにある。ベトナムも中国と同じく縁起をかつぐ。墓地の地相を占って田園の一角を墓地として葬るのである。よって墓が累々とある

彼らが見たお墓の風景というのは、2つ考えられます。1つは、

こんな感じで現在でも農村の一部には存在するお墓の形です。なお手前に線路があることから使節団よりだいぶ後の時代と思われる写真です。

もう1つは、使節団の1年前、1872年にサイゴンを訪れたAlbert Morice博士が、ほぼ同じ場所で見て記録に残した「墓の平原」です。

当時サイゴン~チョロン間に存在したTombs Plain(墓の平原)の写真。湿地帯のような場所に石を積み上げた無数の墓が広がっています。

「墓の平原」は、サイゴンからチョロンへの経路上にある現在10区アンドン市場の北側付近にあったとも言われており、おそらく岩倉使節団も見たであろうと思いますが、この形状から墓と気づいたのかどうかまでは文章からわかりません。

5. 現在も残るチョロンの観光地

さてチョロンについた使節団一行の観光先です。

「穂城会館トテ天后聖母ノ廟アリ、左ニ関帝ヲ祀リ、右ニ財帛星君ヲ祀ル」
穂城会館という天后聖母=媽祖を祭った廟があって、左に関羽、右に財帛星君を祭っている


この場所は、現在も観光地としてガイドブックにも載っている天后宮(Bà Thiên Hậu Pagoda)です。なお実際に現地に訪問すればわかりますが、穂城会館側から見ての左に関帝廟があります。(よって参拝する際に、正面向かっては右側が関帝廟です)

上は、当時(1866-1879頃撮影)の外観
下は、現在の外観



上は、当時の内部
下は、現在の内部(柱の下部が現在も同じであることがわかります)

147年前とほぼ同じ姿を留めていることがわかりますね。

6. 宿泊地を探し出す~そのホテルの成り立ちから最後まで~

さてチョロン観光を終えた使節団一行は、

「六時ニ「ホテルデユニワル」ニ帰リテ、夕餐ス」
午後6時にホテルデユニワルに戻って夕食を取った

とあります。この使節団の宿泊先である「ホテルデユニワル」とは、いったいどこにあった、どんなホテルなのでしょうか?前回の様に、また当時の場所を探し出してみることにしましょう。

まず「デ」はフランス語のde(~の)と考えられます。後年の現代語訳では「オテル・ド・ユニヴェール」と表現されています。現在フランスのニースにあるホテルでは、Hôtel Universと書いて「オテル ユニヴェール」と読むことからユニワルは、Universというスペルと考えられるでしょう。

さてこのHotel de Universがどこに存在したのかです。今回フランス植民地時代のインドシナにあった主要なホテル一覧を掲載した資料を発見し、その中から見つけ出しました(118~121ページ目に掲載されています)。

こちらは使節団滞在よりも22年後ですが、1895年7月27日の消印が押されたこのホテル発行の封筒です。ここにはホテルの住所「Rue Vannier, Place du Round-Point Rue Turc」とありました。ホテル名についているL’はフランス語の定冠詞と考えられます。

この場所を古地図から探し出します。下記は封筒とほぼ同じ時期である1896年の地図です。Vannier通りとTurc通りが交わりRound-Pointがある場所、38番であることがわかります。
ここはサイゴン川の船着き場のすぐそばで、船からのアクセスにも便利な場所です。

しかし38番は、Hotel Ollivierとなっています。これには後述する理由がありました。

なお、この場所の現在ですが、チャンフンダオ像があるロータリーに面したMe Linh Point Towerがある場所となります。(クリックすると表示されます)

さらに調べを進めていくと、このホテルについて詳しく書かれていたページを見つけましたのでその特徴を紹介しましょう。

Hôtel de l’Universの古写真。ホテルの前の道がVannier通り(現Ngô Đức Kế通り)

◆岩倉使節団が滞在する1年前の1872年頃にオープン
◆開業当初はサイゴンを訪れるほとんどのフランス人が選ぶほどの人気ホテル
◆コーチシナ総督の元料理長Ollivierが勤めており、1887年には、「寝るならHôtel Laval、食事をするならHôtel de l’Univers(Ollivier)を選ぶべき」と言われたほど
◆ただしホテルの各部屋には、配管が無くバスタブやシャワーを浴びるにはVannier道路向かいにあったhydrotherapy annexを訪問する必要があり不評だった
◆1886年に経営権がOllivierに移り、Hotel Ollivierへという名称も使われるようになる
◆経営権移動後、中国人スタッフを雇ったが、サービス対応が非常に悪く評判を落とす
◆その後、高級ホテルが続々オープンし設備やサービスで負けて1920年代半ばに閉鎖


1909年2月5日と書かれた写真。Hôtel de l’Universの名称がまだ併用されていたことがわかります。

ちなみになぜホテルなのに各部屋に浴室が無かったのかについては私の仮説ですが、開業直前の1870年の地図を見ると


Cercle des Officier=将校クラブであったことがわかり、ホテル開業時にこの建物をそのまま活用したからだと考えられます。

温泉の外湯や銭湯などの文化がある日本人の使節団としては、道路向かいの別館へ行って風呂につかるというのは、何も苦では無くそれゆえ記録にも書かれなかったのでしょう。

それより記録には、食事やマンゴスチンを始め初めて味わう南国のフルーツの美味しさに驚いており、このホテルの食事に満足した様子が伺えます。

写真の右側がHôtel de l’Univers。間のVannier通りを挟んで左側がおそらくシャワーやバスタブがあったhydrotherapy annexとも考えられる建物の写真です。

7. 使節団も驚いた?1873年のサイゴン「アヘン」事情

使節団の記録には

「亞片煙ヲウル招牌ヲミル、官ヨリ制法アリテ、売モノニ似タリ」
アヘン販売の看板を見る。政府公認で合法的に売っているようだ

とあります。使節団が出発する前の1870年(明治3年)に日本では「販売鴉片烟律」が定められ営利目的でアヘンを販売した主犯者は斬首(※リンク先内30ページ目)と定められました。それゆえ、公認されているアヘン販売に驚いて記録したのでしょう。これを詳しく見ていきます。

7-1. ホーチミンにあるアヘン工場跡は、まだ存在しなかった

現在ホーチミンの観光地でオシャレなレストランがある74 Hai Bà Trưngには、かつて政府公認(新たな税収源として開設した)アヘン工場であったことは、ご存知の方もいると思います。

当時のアヘン工場入り口の古写真。

門に掲げられた模様も含め現在と同じことがわかります。

現在も見ることができる門に掲げられた模様は、アヘンの原材料であるケシの花

しかし、ここが作られたのは、岩倉使節団の8年後1881年以降の事です。工場ができる前の1873年はどういう状況だったのか?最後に取り上げるのは、使節団もさすがに気づかなかったアヘン販売の社会背景です。

7-2. 初期のサイゴンにいたアヘン王かつ総督以上の権勢者

アヘンの元締めとして当時フランスの総督よりも権勢を誇っていたのが、当時サイゴンのアヘン王Wang-Tai(ワンタイ、王泰or王太?)でした。
1827年生まれでフランスによる植民地化の戦争が始まる前(1858以前)に広東省からやってきたという華僑の彼は、レンガ工場を経営していました。


1875~1879年に撮影されたサイゴン近郊のレンガ工場

しかし一番の収益はアヘンの加工と販売と言われています。その莫大な収益を元に彼が作った建物は、1867年建設のサイゴン初の高級ホテル(Hotel Cosmopolitan または Hotel Wang-Taiとも言わる)で、1869年にカンボジアのノロドム国王がサイゴンを訪れた際に宿泊した場所でもあります。

なお、このノロドム国王が来たことを記念して既に述べたノロドム宮殿及び、そこから真っすぐ延びるノロドム通り(現Lê Duẩn通り)へ名前が付けられました。

現在の「グエンフエ通り」「トンダクタン通り」「ハムギー通り」3つに面した1870年頃のHotel Wang-Tai。使節団も目にしたはずであるが、アヘンとの関係性までは気づかなかったことでしょう。

1872年にHôtel de l'Universがオープンする前は、裕福な訪問者がヨーロッパスタイルの快適さとサービスを期待できる唯一のホテルでした。ノロドム宮殿ができる前で総督公邸がまだ木造の小規模な建物だった時代、一部をサイゴン市議会や政府の役所として貸し出すほどの権勢を誇ったと言われています。

また、1880年にできたサイゴン大教会、聖マリア大聖堂においても彼の工場で作られたレンガやタイルが一部使われていました

近年の修復工事で聖マリア大聖堂の壁から見つかったというワンタイの名前が書かれたレンガ

さらに彼は同郷の広東(カントン)省人を助けたため、多くの広東人が彼の建物の近くに住んだことから、この通りには Rue de Canton という名称がつきます。後に第一次大戦後、激戦地の名前を取りソンム通りに名を変えて、現在ではハムギー通りとなります。

1896年の地図。29番がHotel Wang-Taiがあった場所。

しかしワンタイによるアヘン収益の独占を嫌った植民地政府によって1881年に生アヘンの出荷は競争入札となり、74 Hai Bà Trưngに生アヘンの樹脂を処理するための公認アヘン工場が作られることになります。


当時トンキン(ハノイ付近)で撮影されたアヘン喫煙者

1882年、ワンタイは建物を政府に254,000フランで売却し、この建物は再設計されて税関が利用します。そして現在はホーチミン税関ビルとして現存しています。なおこの建物の柱にある装飾には、当時政府の主要な収益源アヘンの象徴である「ケシの花」がデザインされていると言われています。

8. 明治政府首脳陣の記憶に刻まれたサイゴン

1日に満たない、岩倉使節団のサイゴン滞在ですが、報告書には歴史から産業まで書かれており、貪欲に現地情報を吸収した様子が見て取れます。原文にはこんなことが書かれています。

◆サイゴンでは、フランス通貨(フラン)に加えてイギリス通貨(ポンド)も通用する
◆サイゴンの人口は18万人で一番多いのは中国人。さらにマレー人、タイ人、西洋人が雑居している
◆人口は、グエン朝領内(ベトナム中部)で120万5千、カンボジアで100万超(ちなみに同時期1872年の日本の人口は3,480 万人)
◆グエン朝の常備軍は6万人で、象が1000頭ありこれが騎兵の代わりである
◆外国との貿易の主役は、中国人(華僑)商人であること
◆西洋とは規制(禁止品)が多いため貿易は盛んではなく、交易は、中国とタイがほとんど
◆トンキン(北部ベトナム、ハノイ近辺)の人は勤勉で倹約につとめ、仕事にまじめである
◆国全体として西洋の文化よりも中国の文化を好む風潮がある
◆仏教を信仰するが宗教心は甚だ薄く、外面上帰依している。よってお寺は少ない

岩倉使節団が見たのはフランス領となってわずか11年目のサイゴンでした。ではサイゴンを見た日本人は、彼らが初めてなのでしょうか?

いいえ、さらに調べを進めていくと彼らより数年前、植民地化直後のサイゴンを訪れた日本人がおり、その記録を残していました。それはどんな世界だったのか?初めてこの地を踏んだ日本人は誰なのか、彼らは何を見たのか?

長くなりましたので続きはNEW【前編】幕末にサイゴンを見たサムライ達!植民地化直後の世界とは?こちらでお楽しみください。

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