ロッキーを受け継ぐ「クリード チャンプを継ぐ男」

    どうも石川です。
    今回も僕のおすすめの映画を紹介します。
    今回は「クリード チャンプを継ぐ男」です。
    本作はシルベスター・スタローン主演のロッキーシリーズのスピンオフです。

    ロッキーシリーズでロッキーのライバルであったアポロ・クリードの息子が
    ボクサーを目指し、ロッキーを師に迎えるというストーリーです。

    この作品を見る上で前作であるロッキーシリーズは非常に重要です。
    それではロッキーとはどん話だったのでしょうか。

    ロッキーのストーリーは冴えないボクサーであるロッキーがたまたま世界チャンプの対戦相手に選ばれ、
    一念発起し、決死の想いでリングに上がっていくというストーリーです。
    表面的なストーリーだけ言えば非常に単純です。
    この一見単純なストーリーはアカデミー賞を取り、六作も続編が作られ、多くの人々の胸を打ちました。

    その理由の一つはロッキーが公開された時代があります。
    ロッキーの第一作が公開されたのは1979年、その年はアメリカの映画界はニューシネマが終焉を迎えた年とも言えます、

    ニューシネマとは60年代頃にあったそれまでの自己規制による保守的な映画の流れを打ち破るムーブメントです。
    それまでの映画はハッピーエンドで終わり、映画の中には性や暴力と無縁の映画の世界を描いていました。

    ベトナム戦争やヒッピーなど世界には暴力や性があふれていた時代にそんなものは嘘だと思ったクリエイターたちが
    暴力や死、体制への反逆者たちとそして、彼らの敗北を映画として描きはじめたのです。
    それまでの保守的な映画に空きていた観客は衝撃を受け、映画の革命が起きました。

    しかしニューシネマも長く続くと観客の疲弊が始まりました。
    個人と体制との戦いにおいて個人の勝利はありえません。個人の勝利は結局体制化していくということでしか、ないからです。
    そのため個人は無力であるという結論に達するしかありません。それはある意味夢のない結論でした。

    その疲弊の中でロッキーは公開されました。ロッキーが提示するのは劇中のセリフでもある通り、アメリカン・ドリームです。
    誰にも重要だとみなされなかった若者による「個人の勝利」だったのです。

    理由の二つ目はキャスト・スタッフの魅力でした
    脚本と主演を務めたシルベスター・スタローンもまたロッキーと同じように恵まれたところにいなかった存在でした。
    出産時に神経が傷つけられたことで言語と顔に障害が残り、俳優を目指す彼にとってはとても辛いものでした。
    演技力とシチリア系の風貌によりろくな仕事につけなかった彼はオーディションに落ち続けていました。

    そんなときに彼はある映像に衝撃を受けました。
    それはモハメド・アリと無名の白人ボクサーの戦いでした。当時、最強とうたわれたアリにそのボクサーは果敢に挑みました。
    事前の予想でアリの圧勝と言われていた戦いは9Rにチャンピオンのダウンという予想外の展開が起きました。
    その後も戦いは続き、最終ラウンドにもつれ込みました。結果はアリの勝利でしたが、この無名の白人のチャック・ウェプナーにスタローンは光を見たのです。

    自分が出れる役がないのであれば作ればいいとスタローンは3日で脚本を書き、制作会社に売り込みを行いました。
    その際の条件は自分を主役にすること、その条件のため制作会社にかなりの低予算の制作となりましたが、
    そこで呼ばれたのはトロマ映画などいわゆるB級の映画を作っていたジョン・G・ヴィルドセンでした。

    B級の映画を安い予算で作る彼は評価されていましたが、メジャーの第一線にいたわけではありませんでした。

    他の役者陣のタリア・シャイアやバージェス・メレディスも非常に魅力的な役者でしたが決して高い評価を得ていたわけではありません。
    そんな彼らにとってもこの映画はアメリカン・ドリームであり、彼らもまたロッキーだったのです。

    映画において、そのスタッフや制作の流れがストーリーと重なることがあります。
    そんなときに映画にはマジックがかかります。

    新作のクリードもそんなマジックを非常に受け継いだ作品であると想います。
    映画と映画はつながっています、ロッキーを見て、ロッキーのことを知ることで、その感動は何十倍にも増すことがあります。
    ぜひロッキーを見ていない人はロッキーを見て、最近見ていない人はもう一度みて、「クリード チャンプを受け継ぐ男」を観て下さい。