投稿日:

    カテゴリー 日常 / プライベート

    ジェンダーギャップ指数120位

    はい、何でしょうか?
    日本ですね。
    男女平等の世界ランキング、2021年版の順位です。

    ごきげんよう、万人受けは狙っていないモリヤです。ジョニー・ウィアーさんの発言で「オプラ・ウィンフリーだって嫌いって人はいるんだから、人に嫌われるかどうかなんて気にして生きるのは無駄」というものがありまして(うろ覚えなので違う部分があったらすみません)、以来私は必要以上に他人の目を気にすまいと決めました。…まあ、多少は気にしてしまいますが。
    ※ オプラ・ウィンフリー…日本で言えばタモリさんや黒柳徹子さんのような万人受けのする名司会者

    少なくとも数少ない私の理解者が分かってくれて、大事に思ってくれたら私はそれで満足です。
    だって無難ってつまらないじゃない。量産型じゃだめなんだ、ガンダムでなきゃ(友人の言葉を引用)。

    さて、本題に戻りまして、今回は固い話をごめん遊ばせ。

    タイトルのジェンダーギャップ指数は、以下の4観点から評価されます。
    「ジェンダー間の経済的参加度および機会」
    「教育達成度」
    「健康と生存」
    「政治的エンパワーメント」
    教育と健康に関しては何ら問題はない(世界的には)のですが、経済と政治が弱く、120位(G8では最下位)という結果になりました。

    つまり、指導的立場にいる女性の数が圧倒的に少ない国、それが日本です。

    日本で広く持たれているだろう世間一般の認識としては、
    ・子育てを担当するのは女性
    ではないでしょうか。
    また、子育てからの復帰に当たって、会社の受け入れ体制、保育園の受け入れ体制、家庭内の意識、本人の意識すら絡み合って難しい点が多々あり、キャリアを積めない為に上の立場に上がれないと推測されます。

    そんな男女間の立場の差について、私が常日頃違和感を抱いていることを3つピックアップしてみました。

    ◆奥さんをもらう
    →男性が結婚する時に使う言葉

    旧時代的な言い回しの1つです。
    特に意味を考えずに使っている場合が多いとは理解するのですが、二重に違和感があります。
    もらう、は物に対して使う言葉で、それが女性には適用される不思議。
    旦那をもらう
    とは、フレーズとしてなかなかないわけで。
    時代は変わってきている気もしますが、名誉として分かりやすくカネとオンナを求めたがる男性の図式、女性はステータスの一部としてのアクセサリー的な存在としてのカウントでその言い回しになっていたわけです。

    もっと言えば奥さんは、江戸時代の大奥のように、表ではなく、奥にいるもの。他人の目には触れない場所に女性はいるものでした。
    家内も漢字からしかり、嫁も漢字の成り立ちが家なのです…!
    どうしてこうなった!

    性別による上下関係の差のない平等な単語と言えば、
    妻、夫
    があるでしょうか。
    もっと言えば、性別も問わない利点のある、ただの
    パートナー
    として言えるといいな、と思います。相方という人も時々います。
    ちょっと古い言葉ですが、
    連れ合い
    という言葉が私は好きだったりしますね。まあ、自分では使わないんですけど。

    ◆家事を手伝う
    →妻の仕事で、補助的に夫が行うという前提の上の言い回し

    津崎さんちのみくりさんのように契約を交わしてそうしているのならいいけれども、フルタイム共働きの場合はどうなのか?
    それでも女性が家事を担う、という家庭は多いように思いますね。

    賃金の差があるのだから低い方が
    労働で支払うという論もありますが、給与の差が努力の差である場合も、そうでない場合もあり一概には言えないのでナンセンス。
    そもそも採用選別の時点で女性が取られない場合もあり、前述のように昇進しない要素も多く、女性に向いた職業の給与設定が男性に向いた職業よりたまたまあるいは恣意的に低かったりする場合もあるのです。
    あるいは、元から男性は自分より高級取りの相手を伴侶として選ばない場合が多いのもあるかも知れません。
    時間だけはすべての人に平等、1日24時間しかないのです。女性だけ時空が歪んで30時間持っているわけじゃないので、給与の差ではなく、労働時間の差で家事は配分すれば良いのではと思いますが…
    独身の私が語ってもあまり説得力はありませんが、主婦の皆様には共感していただけるのではないかと思いますが、はてさて…

    ◆苗字
    →日本では夫婦は姓を統一する必要があり、その多くは男性に統一される

    先日、最高裁で判決が出ましたね。またしても夫婦同姓は合憲だそうですね。
    予想の範囲内ではありますが…

    ブラジルなどでは父由来と母由来と、姓を2つ持ちます。
    私で言うと、
    Koty Kondo Moriya
    となるわけです。

    25年前、いたいけなモリヤ少女は夫婦別姓の議論を知り、言われてみればなぜアイデンティティの1つを剥奪されなければならないのだろう…と疑問でなりませんでした。幼少時から大体苗字で呼ばれてきたのでね、苗字=私と思っております。
    法律自体は男女いずれを選択しても良いものとされているので、平等ではあるのですが、現実には男性の姓を選択するのが実に96%だそうです。

    自分が嫌な姓剥奪を相手に強いるのもどうかと思うので、昔からどうも結婚には踏み切れません…(強がり)

    子供の頃、夫婦別姓が認められたら結婚したいと思っていたら、その議論が出てから4半世紀以上が経っても未だに変わらないままとは思ってもみなかったけれど、近年ようやくLGBTに関しては諸外国に遅れを取りながらではあっても条例レベルではどうにかこうにか多少は対応されてきているので(全体としてどうかは言及しない)、夫婦別姓に関してもあと50年くらいしたら何か動くのかなーと希望的観測ではありますね。
    以前のアメリカのように、州によって同性婚の可不可が違ったように、日本でも地区によって別姓が認められたらいいのに。

    そんなことを思っていたら4月、アメリカで別姓のまま結婚してきて、日本では戸籍に載せることは拒否されたものの結婚であると司法判断が下されたニュースを目にして、目から鱗でした。
    そうかアメリカ行って結婚してくればいいのか。

    ◆なんとなくまとめのようなもの

    人間は偏見の集合でできているとは誰が言ったか、生まれてから周りにいる人の多様な偏見を総合して考え方が出来上がるので、自分では意図せずに前の時代の考え方を引き継いでしまうことがままあると私は理解しています。
    また、家族など身近な存在がインクルーシブな考え方を持っていたとしても、学校教育が始まると、その小さなムラ(前回ブログ参照)では違う意見を持っていると異端視され生きにくいため、偏見を持っていない子供がだんだん毒される場合がままあります。

    そんな私も気付かず、何かの偏見を持っていることもあろうかとは思います。
    私は完全に、マイノリティフォビアフォビア(造語)…(つまり、マイノリティだからといって他者を蔑視するタイプの人は好きではない)だと自認しているので、そうでないようにとは心掛けてはいますが…

    余談にはなりますが、他者の意見を取り入れて行く段階で、単なるコピペと、自分の意見になったと言える場合の違いについて、ネット上の他人の意見を見ながらそのまま引用してくることができるまでだとコピペ、他人の意見を見ていない時でも頭の中から同じ意見を引っ張り出して来れるとしたらそれはもう自分の意見と言えると私は考えます。
    スクショであるか、ベータベースへの蓄積であるかの違いと言いますか。

    だからもし万が一中学生、高校生がこれを読んでいるとしたら、
    何故社会で使いもしない勉強をしなくてはいけないのかというと、結局アイデアというのは自分の中からしか導き出すことはできなくて、それは勉強して取り入れて来たものしか考えるベースに存在しないわけで、広く色々なことを考えられるようになるには一見必要ではないかも知れないことでも広く知見として持つ為に、今は勉強しているのだと。
    勉強するということはアイデアのベースを増やすことだから、興味の向くことはもちろん、自分の興味の範囲外のことでも多くの勉強をするといいよ。
    強制的に勉強に向き合わされる、勉強のためだけに使っていい自由時間がある機会など、卒業したらそうそうないのだから。

    まあ、これも私が初めて勤めた学校の学年主任の先生の教えの受け売りに、自分の思いを足しただけなんですけどね。

    そして昔より多様な考え方を内包する子供が広く社会に育って行けば、50年後と言わず30年後には彼らが世界を変えてくれるかも知れない。
    楽しみですね。

    お相手はモリヤでした。
    ではまた、お会いしましょう。

    番外編のブログを見る
    『オタクを考える ※長文注意』